君が手枕 触れてしものを
月に一度の「買い出し」の日、山姥切国広は仲間たちと共に万屋街を歩いていた。
生鮮品などは量もあってわざわざ店に足を運ぶことも少ないが、時には直接見て買いたいものもある。季節の品、新刃の日常使いの雑貨、等々。あるいは気晴らしの散歩がてらについて来る者もいる。
山姥切は、事前に見当をつけていた店の看板を目に入れて歩調を緩めた。
「すまんが少し離れる」
「おや? 了解。どのくらいで戻るつもりだい」
「さあ……さほど掛けないつもりだが」
「いやなに、本丸に戻るまでに合流できるならいいさ。菓子屋だの本屋だの寄るところは多いからね」
「できるだけすぐ戻る」
「ふふ、ゆっくりしておいでよ」
一声掛けて、山姥切は集団からふらりと離れた。間口のあまり広くない、古めかしい造りの店を覗き込む。小間物 屋、というのが山姥切の認識であったが、現代 の人々は何と呼ぶのだろう。
奥に細長く延びた店内をぐるりと見渡し、目当ての物を見つけて息を吐く。が、彼はぱちくりと目を瞬いた。少しためらった後、奥の棚で作業をしている店の者へと声を投げた。
「もし。すまない、櫛 を一つ戴きたいのだが」
「はい、少々お待ちを」
少し驚いたように顔を上げた店員は、にこりと笑って山姥切のところにやって来た。どのような櫛をお探しでしょうか、と尋ねる。樹脂製に木製、金属製、色も飾りも様々に棚を埋めている。
「柘植 櫛を、と思ったんだ。この通りで手に入りそうなのはこの店くらいだった」
飴色の質素な櫛が並ぶ棚を、山姥切は見遣った。
「さようでございましたか。日本産の本柘植となると、もう作っているところもほとんどございません。値は張りますが、良い物をなんとか揃えております」
穏やかだが自信の覗く口調で店員は言った。山姥切も頷く。
「ずいぶんと、種類があるんだな」
並ぶ櫛の大小も形も、彼が考えていたより遥かに数が多い。表情こそ変えなかったが、声に困惑が滲んだ。
「御髪 に合わせて櫛を選んでいただくのが一番でございます。それから用途でございますね。御自宅に置いておくのか、持ち歩くのか。ざっくり梳 かすのか、きっちり仕上げるのか。どのような櫛をお求めでございましょう」
「毎朝の身支度に使うようなのを考えている。女人の髪に使いたい」
「さようでございますか。その方の御髪の質感はおわかりですか。太い細い、癖毛か直毛か」
山姥切の求めに、店の者は穏やかに微笑んで尋ねた。もう何年も、何人も、同じように客を相手にしてきたのだろう。不慣れな客から愛想良く情報を引き出していく。助かる。山姥切は思った。が、しかしよくわからない。
「そうか、髪も人の違いがあるのか……。俺はそういうのはよくわからないが……、あぁ、俺の髪が細くて真っ直ぐで羨ましいと言っていた気がする。自分はそうじゃないんだろう」
店員は頷いた。そしてまた尋ねる。
「パーマはかけておられますか。波打つような巻き髪にしておられたりだとか」
「いや、真っ直ぐ、に見える。俺のを真っ直ぐで羨ましいと言う割には真っ直ぐだと思うんだが」
「御本人様には気になる癖がお有りなのかもしれませんね。長さはいかほどでしょう」
山姥切は脳裏に彼女の姿を思い描いた。さらりと背に落ちる艶やかな黒髪を。
「長いな。背中、いや、腰まであったか」
「量も豊かでいらっしゃる?」
「どうなんだろうな。そうなのかもしれない」
我ながら要領を得ない答えに思えたが、店員は二度三度と頷いて笑みを深めた。棚の一角を手のひらで指し示す。
「長い御髪の方でそこまで癖が強くないのでしたら、こちらの荒歯の櫛をおすすめいたします」
そこでやっと、櫛の歯の幅に種類があるのだと山姥切は理解した。本丸の浴場で、髪の長い奴らや身なりにうるさい奴らがやいのやいのと言い交わしているのがこれまで耳を素通りしていたが、なるほど気を遣うと様々あるらしい。
「あとは大きさでございますね。御自宅で使われるのでしたら四寸半以上ですと使い勝手がよろしいかと」
「手に取ってみても構わないか」
「もちろんでございます」
山姥切は棚に並ぶ櫛を一つ手に取った。
* * *
あの日悩んで選んで買った櫛を手のひらに収めて、山姥切国広は審神者の黒髪を掬い取った。
まずは裾、毛先を梳かしてもつれを解く。次に内側を上から下へ。最後に外側を上から下へ、梳 って整える。
すやすやと穏やかに眠る人を起こさないよう、手の届く範囲を彼は丁寧に梳かしていった。
* * *
これにしよう、と山姥切が決めたとき、店の者は少し口籠ってから窺うように彼を見た。
「失礼ですが、櫛を贈る意味はご存知でしょうか」
そのときだけ、店員は微笑みを控えて眉を下げた。言葉端に覗いていた自信と熱心さが、ためらいと不安に変わる。
山姥切は一つ瞬いて、思い当たって頷いた。
「あぁ、“苦”、“死”を思わせるとか、江戸の頃は妻問いに贈ったとか、そういうのか。心配には及ばん、承知している」
「これはとんだ失礼を」
店員の顔に微笑が戻った。年長者の慈しみが見せる笑みだった。
「いえね、大切な御方なのだろうとは御客様のご様子を見ていてわかりましたが、念のためと思いまして」
「……人が見てもそう、わかるか」
「えぇ。お優しい表情をしておられます」
「そうか」
これを包んでくれ、と頼むと、店員は恭しく受け取って、いろいろと扱い方を伝授してくれた。
月に一度程度、椿油につけ込むこと。櫛はそうして使い込んで育てるものだということ。長い髪の梳かし方。
縮緬 の櫛入れと椿油の小瓶を付けて一つに包み、店員は山姥切に手渡した。
「どうぞ末永くお幸せに」
「恩に着る」
山姥切は礼を言ってその店を出た。上着の内側に包みをしまい、上からそっと手のひらで押さえた。
店の者は、山姥切の言葉を「相手のことが大切なのだと、他人が見てもわかるほどか」と取ったようだったが、実のところ山姥切が言いたかったのは「人間が見ても」ということだった。
己の本質は物。仮初めの現身に借物の心で顕現している物 の 怪 だ。そう思っている。だがそれでも人らしく彼女を大切にできているのならば、それは安心できることだった。彼女が人の心で、人として彼らを尊んでくれるから。同じ形で返したいと、今は彼も思っている。
* * *
小さな声を漏らして、審神者がもぞりと身動いだ。閉じていたまぶたがわずかに持ち上がり、黒い瞳が覗く。一つ、二つ、重い瞬きの後、割合いに寝覚めの良い彼女はすぐに山姥切を捉えた。
「おはよう、くにひろ」
「おはよう」
審神者が頬を緩ませる。眠たげな、輪郭の溶けた音。気恥ずかしさと嬉しさの混じる表情。朝起き抜けの一度しか交わせないこの挨拶が、山姥切には愛しくてならなかった。
よいしょ、と審神者が体を起こす。寝乱れた黒髪が肩を滑るのを見て、山姥切は声を掛けた。
「主。そのまま座っててくれるか」
「ん? はぁい」
少し不思議そうにしながらも審神者は素直に動きを止めて、山姥切はその無防備な背後に腰を据えた。羽織を肩に掛けてやり、潜った髪を掬い出す。そうしてまた毛先から彼女の髪を梳かしていった。
「……よし」
力加減にひどく神経を使って、山姥切はなんとか審神者の髪を綺麗に整え終えた。知らず入っていた肩の力を抜いて息を吐く。
「おしまい?」
「あぁ、すまん。待たせたな」
山姥切が手を止めても審神者は静かに座ったままでいた。やり取りの後、髪を一房掬い、さらりと指を通して、山姥切を振り返った。
「ありがとう。なんかこういうの嬉しいな」
目を合わせてふわりと笑う。一段と柔らかいこういう表情を向けられるようになったのは、こうして朝まで共に過ごすようになってからだと思う。
「手を出せ」
山姥切が促すと、審神者は両手を胸元に挙げた。そうじゃないと小さく笑ってその手を取り、手のひらを上に向けさせる。柘植櫛をそっとそこに置く。
審神者は目を見開いて、二度三度と瞬いた。ぱっと山姥切の顔を見上げる。
「これ」
その一言きり、審神者は言葉に詰まったようだった。射干玉 の黒い瞳に驚きと喜びの光が散るのを認めて山姥切はほっとした。
「あんたに」
「いいの? こんなに良いもの」
「あんたのために買ってきたんだ」
何の変哲もない、飾り気のない質朴な木の櫛だ。それを「こんなに良いもの」と驚きに満ちた声で呼んでくれたことが、山姥切は嬉しかった。気付かなくとも構わなかったが、彼女ならそれがどういうものかを知っていそうな気がした。そういう「良いもの」が彼女は結構好きだと、山姥切は知っている。
「うれしい……」
感嘆の吐息に混ぜるように、彼女はそう呟いた。じっと手の内の物に目を落として、まじまじとそれを眺めている。しばらくして、その眼差しが山姥切に向けられた。
「また今日みたいに梳かしてくれる?」
「無論だ」
「やった」
小さな歓喜の声に、山姥切も目を細めた。
「ずっと、そうしたいと思っていた」
「ずっと?」
「ここを訪 うようになってから、だな。あんたの髪を撫でるのが、存外好きだと気付いた」
「そっか。ねぇ、……いや、うん、なんでもない」
ぱさぱさと髪が揺れる。伏せられたまつ毛の影に覗くのが恥じらいの表情だと気付いて、山姥切は少し悩み、それからあぁと声を零した。
「それを贈る意味なら知っている」
「……いいの?」
ためらいがちな声に、山姥切は嘆息した。
「あんたな。終生の誓いをしておいてそこは迷うのか」
「だ、って、それとこれとは違うじゃない……」
この生の終わりの時まで傍にいろ、と、審神者はかつて山姥切に約束させた。それは確かに、主従としての契りだったが、山姥切としてはそれもこれもさして変わらんだろうと思っている。
「夫婦は二世 、主従は三世 の縁、だったか」
「……そんなに山姥切国広を占有しようとは思ってないんだけど」
「は?」
「怒らないでよ、私は次代に受け継ぐための繋ぎにすぎないって言ってるじゃない」
「過去も未来もあんたのために在る心積もりだが?」
「怒らないでってば……」
心外である。この審神者がどうにも自身の足跡 を残すことを厭うているらしいということも、まぁなんとなしに知ってはいるのだが。
はぁ、と審神者は息をついた。謝る気はないらしい。だろうな。山姥切は思った。
「ともかく」
審神者は顔を上げた。直ぐな眼差しが山姥切を捉える。
「とても素敵な贈り物をありがとう。あなたの心遣いがすごく嬉しい」
浮かぶ花笑みに、山姥切も表情を和らげた。喜んでもらえてよかった。
「大事にするね」
「そうしてやってくれ」
教わった通りに手入れの仕方を伝えると、審神者はくすくすと笑った。
「植物油でお手入れするのね。お仲間かしら」
「一生物、というところでは案外そうかもな」
「冗談のつもりだったんだけど」
「知っている」
そんな軽口を叩きながら、山姥切は口端にそっと笑みを載せた。
審神者の眼差しは、櫛と山姥切とを行き来している。滑らかな表面を指先で撫で、手の中でもてあそびながら、目を細めて櫛を眺める。この櫛もきっとこの審神者に大切にされるのだろうと山姥切は確信した。
彼女に大切に扱われることの心地好さを、山姥切はよく知っている。
そして今は、彼女を大切に慈しむための手段を得た。それが心安らぐ行いだということを彼は知った。それは想像以上に温かいものだった。
「大切にする」
細い体に腕を回して、山姥切は小さく告げた。頷きと抱擁が返ってくる。
彼女の終生の守り刀であろうと決めた。同時に、彼女の良き伴侶でありたいと思う。彼女の旅路を共にゆく者でありたい。道中の苦難も、終 に往く死出の旅も、彼女の隣を、歩いていきたい。