月を見て、思うこと。
「今日は中秋の名月! 美しい月と来たら酒を飲まにゃぁ勿体ない! 今夜は飲むぞー!」
「おー!」
「飲むぞー!」
やんややんやと大盛り上がりの食堂、夕餉を終えた酒飲み達が意気揚々と繰り出していく。また大広間で飲めや歌えの大宴会を開く算段なのだろう。
山姥切国広はその騒ぎをちらと流し見て溜め息を吐いた。
片付け役に回りがちなしっかり者たちの説得 の甲斐あって、面倒事厄介事や事件事故に至ることは無いものの、なんというかまあ、毎度毎度賑やかである。
喧騒の遠のいた食堂を出て空を見上げる。東の端に、未だ低いながら輝きを放つ月が見えた。やや雲はあるが、十分に楽しめる天気だろう。
山姥切は母屋に戻ろうと足を向けた。
* * *
「――主」
少しばかり時を進めて、夜も深まり出す頃おい。
執務室に向かって濡れ縁を歩いていけば、予想通り。
「山姥切」
「向こうで飲んでるかと思ったんだが」
「ん、少しお邪魔してたよ? 盛り上がってきたから移ったの」
ここの主はそれなりに酒が好きだ。とはいえ笊 、枠 、うわばみの酒豪どもに合わせられる程ではない。いつも酒の席にはしばらく顔を出し、大酒飲みたちの肩慣らしが終わる頃にそっと抜け出してくるのが通例だった。
「あんたは、酒より風流だよな」
「お酒も好きだよ?」
「だが不粋は嫌いだろう」
「まぁ、ね」
空に目を遣れば、見事な月が南の空に浮かんでいた。酒宴の主役は忘れられる頃にやっと一番美しくなるらしかった。
目線を戻す。縁側に座る主と目が合った。
「一杯ご一緒にいかが?」
「いただこう」
そう、こうして誘われてやる心積りで、ここに来た。
どうぞ、と指し示された場所に腰を下ろす。二つめの猪口が差し出される辺り、この主も俺が来ることをいくらか予想はしていたのだろうと思う。そういう機会を、繰り返してきた。
「乾杯」
さらりとした口当たり、角が無く、けれど澄んだ辛さの後に、ふわりと甘さが香る。主好みの酒だった。
口を付けながら主の顔色を窺う。わかるほど赤くはなっていないか。まださほど酔ってはいないのだろう、と思う。この主は見た目に酔いがわかりにくいのが難点だった。
「綺麗だね」
その視線がこちらに向いているのは感じていた。おそらくは言葉の示す先も。
「国広、髪、触ってもいい?」
「……好きにしろ」
やった、と小さな声。
少し体を向けてやれば、嬉しそうに笑んだ主が手を伸ばしてきた。
頬の横を通って、耳の上に差し入れられる。指が肌に触れて、こそばゆいような妙な感覚が伝うのを気付かれないように押し殺した。
主の指が髪を梳く。
「さらさら。いいなぁ」
そう言う主はにこにこと嬉しそうだ。酒が入るといつもより機嫌良さげに笑うことが増える。楽しそうで何よりだ。
「綺麗。髪の金色、月の光。綺麗」
歌うように言葉を転がして、主は満足そうな吐息を零した。
間近にあるその瞳の煌めきが、綺麗だった。
一頻り撫でて梳いて満足したのか、主はするりと身を引くと、また姿勢良く座り直して猪口を口に運び始めた。
惜しい、と心に過ぎった。こちらの髪をもてあそぶ指先は無遠慮なようでいて、体は一切触れなかった。一寸、二寸、気遣いの隙間。
こちらからその隙間を埋めることもできないではなかったが、そうしなかったのは、不粋に水を差したくなかったからだ。
月を見上げ、酒を舐め、風が吹けば心地好さげに目を伏せる。
口許に浮かぶ緩やかな笑み。
その視線が、こちらを向いた。
「……あのですね」
「?」
「その、視線が、痛いというか」
「? ……ああ、すまない。あんたが楽しそうに飲むから」
見すぎだ、と言いたいらしい。
そうは言っても。
「あんたさっき散々俺を眺めてただろう」
「っ、そ、れはそうだけど……そうですね……」
言い返せない様子の主が正直少し面白い。
思わず笑えば恨めしげに睨まれた。
「私は月も楽しんでるけど国広はさっきからこっちしか見てないじゃない」
「あんたと飲むために来てるからな」
言ってやれば、ぴしりと主が固まった。ふわりと耳が色づいていく。
月を見て、美しいとは思うがそれだけだ。
ここに来たのはそれなりに酒の好きな主に誘われるためで、酒が入ってご機嫌な主を傍で見守るためだ。一等傍で。たとえそこに幾寸かの距離を置かれても。誰より近い場所で。
「……ずるい」
「どこが」
「うるさい。あつくなってきたからおしまいにします!」
熱を帯びるのは酒のせいだと言い張る主は、今夜はこれでお開きにするらしい。
立ち上がりしな僅かに軸が揺らいでいるのを見るに、いくらか酔いが回っているのも確かなのだろう。
「片付けはやっておく。あんた冷えやすいだろう、部屋に戻れ」
「いいよ、付き合ってもらったの私だし」
「いいから」
「ん、じゃあお言葉に甘えて。ありがとう」
はにかむような柔らかい笑顔に頷き返す。
片付けて、戻ったら。主は言った通り部屋に下がっているだろうか。
そうするような気もしたし、理由を付けて月を眺めていそうな気もした。
まだここに居たら。酔い醒ましに庭を歩いても良いかもしれない。
月を愛でる主を、もう少しの間、傍で。
初出:2021年9月22日 pixiv
加筆:2025年2月22日