梅雨の晴れ間に君を想う

 雨と曇りばかりが続く六月の梅雨の最中のこと。蒸し暑いような肌寒いような、刀でなくとも身の錆びつきそうな心地のする天気が続いたある日、ようやっと雲が途切れて晴れ間が覗いた。濡れた庭はきらきらと光り、短刀たちのきゃらきゃらと楽しげなはしゃぎ声が執務室にまで届いてくる。誘い出されるように、庭へと散歩に降りた。  初夏の勢いのまま伸びた枝が雨露に重くしな垂れて袖を濡らす。煩わしいことは確かだったけれど、室内に押し込められて鬱々とする日が続いた後ではそれもうんと楽しかった。  紫陽花たちは少し見ないうちにぐっと色が濃くなった。花菖蒲は雨にしどけなく濡れながらも優美に力強く咲き誇っている。濡れた土と緑の匂いの中に、甘く清涼な梔子くちなしの香が交ざるのに気づいて、どこからだろうと辺りを見回した。 「……あ、」  顔を上げた視界に入る花があって、思わず足を止めた。すんなりと背を伸ばし、柔らかそうな黄緑色の葉を茂らせる一本の樹。白い花弁が目を引いた。 ――夏椿なつつばきだ。  思い入れのある木だった。この本丸にも刀剣男士が増えてきて、いくらか日々の行いにも余裕が出てきた頃。少しは自分の好きなもので飾ってはどうかと勧められたのだ。この城の主なのだから、と。それで庭木のひとつに選んだのが夏椿だった。それも確か話が出たのが初夏の頃で、たまたまどこかで見かけたのが記憶に新しく残っていたからとか、そんな理由で挙げたのだった。  穴を掘って、まだひょろりとしていた若木をそこに据えて。花の季節を過ぎて植えたものだったから、来年は花が見られると良いねなんて話をして。あれは執務室からも見える場所に植えたから、今目にしているのは別の木だ。同じ時期に植えたものには違いないけれど。  そんなこの木も、この数年でずいぶんと枝振りが良くなった。百日紅さるすべりのような滑らかな樹皮はまだらに剥がれて見た目にも楽しい。椿に似た形の白い花は、緑に覆われたこの時季の木々の間にあって一際目を引く。花弁の縁は細かに縮れて可愛らしいし、黄色い花心も柔らかな色調なのに鮮やかだ。  好きだなぁ、と眺めて思う。植えて良かったと思える木だった。 ――今年もよくたくさん咲いてくれました。  なんとなしに感慨に浸りながら、好ましい花木の姿を観察していた。  皺のある白い花弁、黄色い花のしべ、黄緑色の葉、重なり合う緑の陰影、隙間に覗く青空。 「あ、……」 ――国広の色、だ。    * * *  ぱちり、と鋏が枝を切る。 「はい、主。これで良いかな」 「ありがとう」  差し出された小枝を受け取った。手渡してくれた蜂須賀が脚立を降りる。長い髪を避けて、畳んだそれを肩に担ぐ。きらびやかな服装に似合わぬ姿が少し可笑しくて、同時に頼みを厭わず受けてくれたことをありがたく思った。  再びの雨模様に陰る空の下、朝一番の仕事にお願いしたのが、夏椿をひと枝摘み取ってもらうことだった。自分でやろうと思っていたのに、脚立を仕舞っているのはどこだったかと訊いたらそのまま引き受けてくれたのだった。 「それにしても珍しいね。主が自分から花を取りにいくなんて。いつも歌仙や前田の生けるのを楽しみにしてるだろう?」 「うん。今日はこれを置いておきたくて。別に誰かに頼んでも良かったし、一日しか飾っておけないけど……」 「あぁ、夕方には落ちてしまうから」 「そう」  夏椿は朝に花が咲いたら夕方には落ちてしまう一日花いちにちばなだ。その短時間飾っておくためだけに枝を伐ってしまうのはもったいない気もしたけれど、結局ひと枝分けてもらうことにした。  いつもならば、蜂須賀が言った通り、床飾りの作法に心得のある男士に任せておくのだけれど。今日はこの花を見ていたかったから、自分で取りに来たのだ。 「夏椿は主が選んだ木だったね。気に入りなのかな」 「……うん。それもある、けど、……色がね、似ているなって思ってしまって」  なんということのない問いに、答えは尻すぼみになってしまった。蜂須賀が首を傾げる。 「蜂須賀に言うのも少し気が引けるんだけど、……えっと、居ないのが、落ち着かなくて」 「……あぁ」  近侍代理が苦笑した。濁してぼかして明言を避けたけれど、それに意味が無いのは自分でもわかっていた。 「そんなに似ているかな、山姥切に」  そう、私は私の大切な初期刀さまを思い出していた。夏椿の白い花弁は彼が手放さなかった布の色、黄色い花蕊かずいは彼の目映い髪の色、枝葉の緑に透かし見る青空は彼の瞳を思い出させた。思い起こして、寂しさを覚えた。  彼は今、この本丸を離れている。  時の政府から命が下った特別調査任務、その任に当たる部隊の隊長を、彼に担ってもらっていた。  本歌「山姥切」、長船長義の作というその刀を、新たな戦力として手に入れるよう政府は強く奨励している。修行を終えた今の彼なら、その任を、彼なりの強さで無事こなしてくれると思ったから、部隊長として送り出した。  ……問題があるとすれば、それは私の方だった。  最初の一振りに彼を選び、この本丸に足を踏み入れてからずっと、修行に送り出した四日間を除けば、私の側近くに仕えるのはいつだって彼の役目だった。  そうやって頼り切ってきてしまったから、彼の不在は思いの外堪えた。情けないことに、心細くて落ち着かない。  彼らが出陣する「放棄された世界」というのが通信に難のある時空なのも、大いに不安の種ではあった。が、この胸の内のざわめきがそのためだけではないことは明らかだった。 「早く、無事に帰ってきてくれると良いんだけど……」  ため息をつくと、手の中の白い花に目が行った。目映い金色、花緑青。彼が、彼の率いる部隊の皆が、損なわれることなく無事に帰ってきてくれますように。 「大丈夫、すぐだよ」  近侍が軽やかに請け合った。柔らかく朗らかな微笑は、さながら兄の顔だった。 「そうだね」  そう、しっかりしなくては。どんな結果であれ、もちろん無事であると信じているけれど、彼らの帰りをきちんと迎え入れられるように備えておかなくては。  そのための今日を、始めよう。  ……とはいえ、やはり、気は晴れなくて。つい溢れたため息に、隣で近侍が苦笑していた。

初出:2019年6月21日
加筆:2024年6月21日

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