末は広がり果ても見えず
季節は冬。寒さ厳しい睦月 の末。
その本丸は、審神者の就任満七年を数えていた。
節目の日なれば一振り一振りと話がしたい、と言って、審神者は刀剣男士たちにそれぞれ機を見て執務室に顔を出すよう命じていた。
生真面目な質の審神者の影響を受けてか、律儀な者の多いのがこの本丸である。
なんとなしに順序が整えられ、皆互いに声を掛け合い、全員の挨拶が済めば宴を始めて良しという追加の命も背を押して、祝辞の贈答は実に手際良く済まされていった。
その晩のこと。
日の沈む前から祝いの席は始まっていたようなものだったが、夕餉に合わせて酒も解禁となると、一気に賑やかさは増した。
皆それぞれに審神者へ祝いの言葉は告げていたはずであったが、酒が入ると審神者を褒め称える声があちこちから上がった。
何せ七年である。
本丸に集う刀剣は今や百振りを越え、積み重ねた年月には思い出がいくらも詰まっている。
あんなことがあった、こんなことがあった、昨年の大規模襲撃にはさすがに驚いた、今となっては思い出話。それも我らが主あってのこと。めでたやめでたや。さぁ飲め飲め。
審神者の祝いの日ともなれば皆その人に群がって声を掛けたがる。笑いが広がれば酒も進む。やんややんやと大盛り上がりで、しかしその塊も時が経つに連れて徐々にほぐれていった。
勧められれば酒に口を付け、酔いの防止に水分も摂っていた審神者は、自分を囲む輪が落ち着いてきたのを見計らって手洗いに席を立った。
ほどほどのところで席を離れれば後は皆適当に楽しんでくれることを、彼女も既に学んでいる。
冬の水道水の冷たさに酔いの火照りを自覚させられる。冷え込んだ廊下をむしろ涼しく思いつつ広間に戻ろうと足を進めていれば、縁側に見慣れた影があった。
「あれ、山姥切」
既に審神者の気配には気付いていたのだろう、山姥切国広は驚いた様子もなく、特に言葉を返すこともせず、ただ呼び掛けに顔を向けた。
広間を出てほんの数歩歩いただけの、喧騒が十分届く距離である。
飲み交わす輪に入るでもなく、宴会から完全に立ち去るわけでもなく。幾分半端な場所に佇む彼の姿に、審神者は首を傾げた。
「大丈夫、酔った?」
「いや、そこまでではない。まぁ、少し酔い醒ましにな」
彼には珍しくどことなくぼんやりしたような声音だと審神者は思ったが、酒宴のせいだろうと頷くに留めた。
「そっか」
「あぁ。あんたは? 呑まれてないか」
ほら、会話の二言目には審神者を気遣う、いつもの近侍殿だ。
審神者は頬に手の甲を当てた。冷水と外気に冷やされた手が心地良い。その程度には酒が回っているが、特に調子の悪さは感じなかった。
「ん、大丈夫、かな。気を付けてはいるよ」
「なら良い。あんた顔に出にくいからな、悪いがおそらく気付いてやれん」
じっと、文字通り顔色を窺うように審神者を見つめていた山姥切は、返答を聞くと頷いて返した。
相変わらず過保護なこと、と審神者はくすぐったさにころころと笑った。
「ふふ、ありがとう。でも私のことばっかり気に掛けすぎじゃない? 宴のときくらい気にせず過ごしてくれて良いのに」
「……、……習い性だ」
ぐ、と言葉に詰まった彼が顔を逸らす。
習い性 と成るほどに、彼は審神者のことを気に掛けている。傍に侍る者の常として。言い逃れのような言葉は、しかし事実だった。
宴の席でも、その前の執務室でも。いつもは山姥切ばかりが主の傍にいるから、こんなときくらいは、と何振りかに軽い口調で溢されたのを審神者は思い出した。初期刀で頼りにしてるのもわかってるけどさ、と。
「いや、私のせいか。頼り過ぎだね、ごめんなさい」
「構わん。あんたが謝ることじゃない」
審神者の言葉を、山姥切は即座に否定して返した。
碧い瞳が常通りに審神者を真っ直ぐ捉えている。日もとうに沈んだ冬の夜、廊下のわずかな照明の下ではその瞳の色はいささか窺い難かったが、それでも視線の直ぐな強さは普段と変わらず、審神者の身に馴染んだものだった。
「うん……、いつもありがとう」
審神者は心から礼を言った。こういう日だからこそ、殊更丁寧に感謝の思いを込めた。
その言葉を受け取り小さく頷いた山姥切は、ややあって、目線をふっと逸らした。長いまつ毛が影を落とす。
「……なぁ、俺はあんたの眼鏡に適う働きができているか?」
「え、もちろん」
あまりに答えのわかり切った問いに、審神者はやや驚きながら即答した。
「そうか……」
どこかぼんやりした答えだった。気分が沈んでいるのか、考え事に耽っているのか。
暗がりでは表情も窺い難く、審神者はためらいつつも声にした。
「何か、気になることでもあった?」
「いや……、これで良いのかと、思ってな」
呟くような返答に、審神者は一歩山姥切の方へ近寄った。
いつも、真っ直ぐに背を伸ばし前を見据える山姥切が、俯いている。
山姥切は落としていた視線を審神者に戻した。目を合わせるというよりも、そこにあるものを眺めるような、やはりどこかぼんやりとした視線だった。
「あんたが就任して七年ということは、それだけ戦が続いているということだろう。
敵を切り、歴史を守り、そうしてあんたに采配を置かせるのが俺の務めだと思っているが、未だ戦は終わらず、あんたを戦場 から遠ざけることもできないままでいる。
偏 に、俺たちの力不足だろう」
「……山姥切……」
答えに窮して審神者はただ彼の名を口にした。
彼の働きは十二分だ。手強い敵のいる合戦場では先陣を切り、本丸では進んで審神者の執務を補佐してくれる。加えて執務室の内でも外でも審神者の心身をよく気遣ってくれる、この上なく頼もしい近侍だった。
だが、戦が終わらないこともまた、事実だった。
「……すまん、あんたの祝いの日に言うことじゃなかったな。
そろそろ中に入れ、体を冷やす」
はっと目を瞬かせた山姥切が口早に審神者を促す。
あまりの冷え込みの厳しさに縁側の雨戸は皆閉め切っていたが、戸や壁、床板を伝って冷気は容赦なく廊下の気温を下げていた。
踵を返そうとする山姥切の腕を、審神者は慌てて掴んだ。
「待って、山姥切」
困惑したように審神者を見下ろす山姥切の目を、審神者は正面から覗き込んだ。
山姥切が動きを止めたのを確認して、一呼吸、二呼吸、言葉を探る。
「あなたの言うこと、何も間違ってない。
確かに私たちは、この戦争を終わらせられないでいる。この本丸も、時の政府も」
言葉を切って、息を吸った。
「でも、それは山姥切たちのせいじゃない。
たぶん、今日だって、戦いが終わらないからこそ祝ってるんだと思うの。
終わりの見えない戦いの日々の中で、続けていることでも祝ってなきゃ、不満を誤魔化せないのよ。
どれだけ戦っても後から後から敵は湧いてくる。戦場に長居すれば検非違使を呼ぶ。戦の着地点なんか見えたものじゃない。
そんなんじゃ、精神を病む人間が出たっておかしくない。
だから敢えてハレの日を作って単調な日々から一瞬目を逸らさせる。これってたぶんそういうものなのよ」
「時の政府の策だと?」
「そうかもって話。捻くれた考えだとは思うけど」
剣呑な声に、審神者は苦く笑った。
時の政府の担当職員からも祝いの言葉が届いていた。
これまでの勤続を称えて。その功績を称えて。
「祝われて褒められて感謝されれば、人は気持ち良くなる。
毎日のように顔を合わせて生活を共にすれば情も移る。
そうやって愛着が湧けば、審神者は本丸と刀剣男士から離れられなくなる。
当然よね、私だってそうだもの」
少しずつ険しさを増す山姥切の表情を見つめながら、審神者は笑って言ってのけた。
取り分けこの刀は審神者にとって特別だった。初めに選んだ刀。共に歩んできた戦友。この山姥切国広はこの審神者の終生の守り刀だった。
審神者の表情に、嘲笑が混じった。
「時の政府は大事な戦力を手放したくないに決まってる。
とすれば形式でもなんでも祝いもするわよね。
あなた様方のおかげでこの戦争は我らが陣営が勝ち続けています、これからもどうぞよろしく。って。
乗せられているのが癪だけど」
「……主」
山姥切はすっかり渋面になっていた。
審神者は再び苦笑した。
「時の政府の思惑通りかもしれないけど、でも、私、やっぱりあなたたちのことが好きなのよ。
戦時中だけど、ここでの暮らしだけ見れば至って平和だし、それはあなたたちのおかげ。みんなが頑張ってくれて、私を支えてくれるから、私はこの日を迎えられてる。
今さら現世に戻って普通の人みたいに一社会人として過ごせ、って言われても、正直あんまり上手くできる気がしないしね」
審神者は大広間の方に目を遣った。襖越しに喧騒が聞こえてきている。
多くの男士が、審神者の努力の積み重ねが今日に至ったのだ、と彼女を賞賛したけれど、審神者にとってみれば全ては彼らの働きのおかげだった。彼女は、神輿 に乗せられた人形のようなものだった。
「この日はいつも言っているでしょう?
あなたたちが戦って、勝ち続けてくれているから、この日がある。あなたたちのお祝いの日なの。
力不足だなんて思ってない。過去を変えたいと願う人間が消えるとは思えない。この戦を終わらせられないのは私たち人間の方なのよ。
絶対に山姥切やみんなのせいじゃない」
彼女はきっぱりと言い切った。
審神者の言葉を静かに聞いていた山姥切は、しばしの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……そうか」
「うん」
「あんたの期待に応えられているならそれはそれで良い。
いずれにしても俺はあんたのための刀だし、あんたの戦を終わらせるためにこれからも力を尽くそう」
審神者の目を見据えて山姥切は告げた。幾度も繰り返した誓いを今ひと度口にする。
審神者は口許を綻ばせた。この男士がこういうときに見せる、伸びた背や力強い声や真っ直ぐな視線が、いつのときも好ましかった。
「うん。いつもの返事になっちゃうけど、本当に、頼りにしてる。ありがとう」
山姥切は頷くと、ふっと笑って口端を持ち上げた。
「乗せられていると思うと気に入らないが、節目節目で区切るのはそう悪いものでもないのがな。
何のためにこの刀を振るっているのか、こういう日が来る度改めて思い直す。それ自体は良いことだ」
「そうね、ほんとに」
「さて、いい加減中に入れ。付き合わせて悪かったな、冷えただろう」
促され、審神者は今度は素直に従った。
山姥切が襖を開けると、さっと柔らかな光が廊下に射し入る。金の髪が、碧の瞳が、光を受けて煌めくのを審神者は後ろから眺めていた。
「あ! まーた総隊長殿が主捕まえてやがらァ」
「おやおや、今日は主を皆で平等に分け合うという話だったはずデスよ」
「私はケーキか何かなの?」
「ほら主はこっちの席おいで」
「山姥切のそれは、僕にはどうにも親の後ろをついて歩く子鴨のように見えて仕方がないんですよねぇ」
「あっはっはっはっ! 山姥切が過保護なんじゃなくて?」
「親から離れたくない子どもですよ。いつも自分の視界に主が入るように立ち回ってるでしょう」
「あはっ、あんまりしつこいと愛想尽かされるぞそーたいちょー」
「……言っていろ」
皆気持ち良く酒が回っているのか、からかう口に容赦がない。
けたけたと笑っている皆を見ながら、審神者は麦茶を注いだグラスに口を付けた。まだまだ酒を勧められるだろうから、その前の水分補給である。
たっぷり氷を入れたグラスは結露をまとって彼女の手を濡らした。冷えた麦茶が存在感もありありと喉を通って胃に滑り落ちる。
盛り上がる皆の熱気を感じ微笑みを唇に浮かべつつも、酔いの醒めた頭は物思いに引っ張られた。
人の、身勝手さを思う。
時の政府は、審神者たちは、歴史の中で美術品となった日本刀を、そうすることで生き永らえたそれらを、今再び武器として持ち出している。
刀に宿る心を励起させ、人の姿を与え付喪神として顕現させ、その手に本体たる刀を握らせ、戦わせている。
人間の手は汚さぬままに。
卑怯な真似をしていると審神者は常々思っている。しかし体制を覆せるほどの力も志も、彼女は持たなかった。
だからこうして就任七周年などという日を迎えている。
「主よ、先程から静かではないか?」
「だいじょうぶですかあるじさま? むりにつきあわなくていいのですよ?」
「んーん、平気。ちょっと酔いが醒めちゃったから、みんなの元気の良さに気圧されちゃったかな」
「みな、のむとうるさいですからねぇ」
「酒を飲むといよいよ楽しくてなぁ! 主もまだここに居るのならもう少しどうだ?」
「そうですよ、しらふでつきあってもつかれるだけです」
「ふふ、じゃあいただこうかな。お手柔らかにね」
嬉しそうに笑って猪口を差し出してくるのを受け取り、審神者は乾杯と笑い返して酒を含んだ。
今はまだ、彼女の刀剣男士たちは彼女を慕い、命に従ってくれている。
終わりの見えない戦いに首を捻る者もあれど、今は、まだ。
その信頼を、裏切るわけにはいかないのだと、審神者は決意を胸に落とし込んだ。
「主様」
「大将」
「主」
いつか彼ら刀剣男士が、この終わりなき戦に、あるいは持ち主たる審神者たちに、飽くことがあれば、きっとそのときこの戦争は終わるのだろう。
書き換えては修正を加えて歪み切った歴史と、傷つき磨り減った刀を残して。
せめて己がこの本丸にいる間は、そんないつかが来なければいい。
審神者はそう願い、そんな自分の身勝手さに苦笑した。
甘く華やかな香りの酒が、キレ良く審神者の喉を焼いた。
初出:2023年1月31日
加筆:2025年2月22日