御空みそらを望む

 山姥切国広の冬の朝は、天気を見ることから始まる。  彼も、彼の兄弟達も早起きだった。  日の出のおよそ一時間前に起き出すのが常だった。  寝起きに彼らと朝の挨拶を交わすと、彼はまず窓の外を窺った。  曇っていることはまず無いが——彼の主は雪が降らない地域の出で本丸の気候もそれに倣っていた——快晴ならば、彼にはすべき事があった。  誰に命じられたわけでもない事だが、彼は進んでその役目を負った。  手早く身なりを整え、洗濯に出すものをり分け、念の為羽織を一枚肩に掛けて部屋を出た。 「うわぁ、今日は一段と寒いね……」 「そうだな……」  宿舎棟を降り、渡り廊下へ出ると、外気の影響をもろに受けるその場所は随分と冷え切っていた。  脇差の兄弟の呻くような言葉に頷く。真っ直ぐ食堂に向かうと言う彼とはそこで別れた。  外を眺め遣れば、きっぱりと晴れ渡った夜空に星が瞬いている。  冬の星座はとうに沈み、今見えているのは、なんと言ったか……、あぁ、スピカと、……アークトゥルスか。本を開いて脇に置き、星座盤を回し掲げていたいつぞやのことを思い出す。  こう晴れて冷え込んでいると、彼の「すべき事」の必要性はぐんと増した。  少し悩んで、彼は厨へと足を向けた。  引き出しを開き、ずらりと並んだマグカップの中から目当てのものを取り出す。  刀剣男士の数も増えて、個々刃の持ち物を共有スペースに置くのも手狭になってきた、が、今のところ大規模な改修改善の予定は無い。  棚からインスタントコーヒーの瓶を取る。  ティースプーンにふんわり小山で一杯。砂糖をスプーンの先にほんの少し。少量の湯で溶く。  冷蔵庫から牛乳を取り出し、だばだばとマグカップにたっぷり注ぐ。  電子レンジで適度に温めて、彼はそののマグを盆に乗せると厨を後にした。  階段を昇る。  二階。  今はまだこの棟はがらんとして静まり返っている。  三階。  窓の外が仄かに明るくなりかけている。  上階から話し声が聞こえてきた。彼のここまでの作業が徒労に終わらずに済んだことを示していた。 「……おはよう」 「あ、山姥切。おはよう」 「おはよーさん」 「おう、おはよう総隊長!」  山姥切が展望室に足を踏み入れ声を掛けると、そこにいた一人と二振りさんにんがそれぞれ挨拶を返してくる。 「そら」 「あ、淹れてきてくれたの? 気を遣わせてごめんね、ありがとう、嬉しい」  まだそれなりに熱いはずのカフェオレのマグを差し出してやれば、審神者は受け取って笑顔を見せた。  真っ白なダウンコートにすっぽり包まって座っている。吐く息と湯気が白く混ざる。 「あーあ、俺も腹減ったなァ」 「もう少しだって正国」 「宿直とのいが悪いたァ言わねーけどよ、夜戦の訓練ができるワケでもねーしなァ」 「そうは言ってもな。ほら大将が困ってるだろ」 「あー、あんたに文句があるワケじゃねえよ」 「うん、わかってる。お疲れ様」  同田貫正国と厚藤四郎がそんな遣り取りをしている。  ぽつりぽつりと会話を交わし——主に手合せの評価と助言だった——、所定の時刻になると、二振りは夜間警備に異常が無かったことを審神者に形式的に報告し、食事と布団を求めて階下へ降りていった。  しん、と静寂が広がった。  山姥切は柱に背を預けてマグカップに口を付けた。  審神者は座り直して背を正し、真っ直ぐに東の方を眺めていた。  明るんできた大気が彼女の頬を仄かに照らしていた。  審神者のこれは、冬の間の習慣のようなものだった。  本人でさえ理由はよくわからないと口にしたが、彼女は冬の朝というものをこよなく愛していた。  日の出前に起き出し、晴れていれば喜々として高所に昇り、東の空が刻々と色を変える様を一心に眺めて過ごした。  冷え込んでいれば尚のことその機嫌は上向いた。 ——冬の夜明けの金色。私の一等好きな色。   あなたの色ね。  いつぞやに、彼女は歌うようにそう言って山姥切国広に微笑みかけた。  夜明け前の空の色が彼の装束の色に重なり、やがて空を満たしていく光の色が彼を思わせるのだと彼女はのたまった。  あなたは太陽そのものではないと思うのだけどね、と苦笑めいた表情と共に付け足して。  審神者がそう言うのならば、そう見ることもできるのだろうと彼は思った。  彼は他人が何かを評する言葉を素直に受け入れる質だった。  彼はマグカップに口を付けた。外気に直接触れるものだから冷めるのが早い。  審神者の手許を見遣ると、カフェオレはマグカップに半分以上残ったままだった。また飲むのを忘れているな、と内心で小さく息を吐く。これもいつものことだった。  大分夜の気配が薄れてきた空をぐるりと眺め渡し、彼は西の方、審神者が背を向ける空へと視線を留め置いた。  天蓋の端に陽の光が当たるのであろうか、日の出の前の西の空は、柔らかな桃色に染まっていた。  夜の名残りの青色と、朝焼けに近い桃色と、その間の紫と。それらが入り混じったぼかしの空を、彼はそれなりに気に入っていた。  僅かな時間のみ見られるその色は、美しいと言ってなんら差し支えないものだと風情に疎い彼とてわかったし、何となしに、あの色は審神者に似合うのだろうと思っていた。彼はそのことを誰にも言ったことは無かったが。  控えめで、穏やかで、涼し気な顔をしながら仄かにあたたかみのある色合い。派手ではないが、十分に美しいそれ。  紅掛空色べにかけそらいろ、と呼ぶのだったか。  ふう、と息を吐いて身動ぎする音がして、彼は審神者に目を戻した。 「だいぶ明けてきたわね。そろそろ戻ろうかしら」  太陽は未だ顔を見せないが、空はすっかり白んでいた。こうなってくるともう審神者の興味は離れてしまう。彼女は夜明け前をこそ好んでいるのだ。  彼は僅かに残るマグの中身をぐいと飲み干し、立ち上がる審神者の傍に寄った。  振り向いた頬に手のひらで触れる。 「……冷えている」 「そうでしょうねぇ。ごめんなさい、カフェオレ、結局飲むの忘れてた。下に降りたら温め直すから」 「気にするな。わかって持ってきている。少しは懐炉カイロ代わりになっただろう」 「うん。ありがとう。味もぴったり好みだった」  彼の手のひらに自分から擦り寄るようにして、審神者はゆったりと言葉を連ねて笑った。  少しも警戒心の無い振る舞いに、彼は胸の裏側がくすぐられるような心地がした。こそばゆかった。  あんたが今目の前に置いて肌に触れさせているのは切れ味鋭い刃物なんだぞ、と苦言を呈したいほどだった。 「国広も、寒いのに付き合ってくれてありがとう」 「構わない」 「ん。さて、今日も頑張りましょうか」 「あぁ。……まずはちゃんと温まってくれ」 「ふふ、はぁい」  上機嫌らしく、どこか緩んだ声音の審神者を階段へと促す。  展望室を出る直前、彼はちらと後ろを振り返った。  澄み切った冬晴れの青空が凛然と広がっていた。

初出:2023年2月5日 pixiv
加筆:2025年2月23日

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