幸 いを掬 する
虫の声が聞こえている。
夏の暑さを助長する蝉ではなく、蟋蟀 の音だ。日中はまだ暑さが残るというのに、其処此処に秋の気配がしている。
冷房はまだまだ消せないが、人肌の温もりを撥ね付けるほどでもなくなってきた。それがありがたいと思う。仕方ないとわかっていても、平気だと思っていても、こうして触れる快さを思い出すと、思いの外恋しさを自覚する。
寝息を立てる恋しい人の顔を覗く。すやすやと穏やかに眠る様子に心が和らぐ。
今は閉じた目蓋に隠されている瞳が、今日も頻りに輝いていたのを思い出す。あそこが好き、ここが良い、あれも外せない、これも堪らない。次から次に好きを拾って言葉を重ねて、一振りの刀の端から端まで褒めしきる。いきいきと楽しげに語る姿は、渡される賞賛の花束は、何度繰り返しても良いものだった。
飽きないな、と思う。彼女も、自分も。
同じように返せたら、彼女も幸せを感じてくれるだろうか。そう、幸せなのだ、自分は。その好意を向けられる度。
だがどうしても同じようにはできなかった。あんなふうに多種多様な言葉を繰り出せるほどの引き出しも頭の回転の早さも、自分にはどうにも無いもののようだった。
想いだけならば確かにそこにあるはずなのに。見えもしない、触れられもしない、名状しがたい、しかし確かにそこにあるのだ。秋の気配がそうであるように。
伝えられたらどんなに良いか、と、その思いに動かされて、眠るその人の頭を撫でた。手のひらで丸みをなぞる。そのまま髪に指を通した。つれて痛みを与えないよう、そっと、ゆっくり。この黒髪を梳 るのも久しぶりだった。また朝を迎える度に任せてくれるようになるだろうか。涼しくなるのが待ち遠しい。
一頻り撫でて梳かして満足する。今度は耳の下に指を差し込んで、柔らかな頬に指を触れた。この曲線に手のひらを添わすのも好きだった。擦り寄ってくれるのが好きだった。
まだよく眠っているようだった。起こさぬように細心に、その眼尻に口付ける。輝く瞳に敬愛を。目蓋の上にやりたかったが、目蓋越しでも目に触れるのは怖かった。
冷房で少し肌の冷えた、けれどその下に温もりの宿る頬を堪能してから手を放す。
力の抜けた小さな手を掬い取って己の手に収める。手の甲から指先を撫で、指を絡めて柔く握る。
彼女の手も好きだった。刀という物の性質だろうか。ひとの手というものが好ましかった。彼女のそれなら尚更だった。
時に手入れを施してくれる手。戦わぬ者の柔らかな手のひら。守るべきものの形。
そっとほどいて、体を寄せた。命の温度を人の身の肌に感じる。
力が抜ける。吐息が落ちる。口許が緩んでいるのを自覚した。
彼女の好ましいところを、その形象 を辿ってみて思う。
――本当によくあんなに言葉が出てくるものだな。
自分にはやはり難しそうだと笑いたくなる。彼女と同じ方法が取れないなら、己に何ができるだろうか。
温かな温度に眠気が忍び寄ってくるのを感じながら考える。
穏やかな寝息が微かに肌を撫ぜるのがくすぐったかった。
この平穏を守ってやりたいなと思う。心を砕いて、気を配って、そうして疲れてしまう人だから。能う限りその心を穏やかに保てるよう、憂いを払ってやりたいと思う。
――あんたの夢にも現にも、等しく幸 いがあれば良い。
彼女が自分に与えてくれる幸せを、彼女自身にも贈りたい。
そこにあるものを守り、それ以上を与える。後者は今少し努力が必要だなと思い至って心の内に頷く。
それでもまずは、この安寧を守ってみせよう。
長くなりゆく初秋の夜に、どうか穏やかな眠りがあるように。
「おやすみ」
起こさぬようにと囁いて、眠気のままに目を閉じた。