満たすは青
廊下に近付く気配を感じて山姥切国広は顔を上げた。審神者を見遣ると、随分と集中しているらしい。人は集中して物を見ると瞬きが減る、というのを教えてきたのは誰だったか。今日も壁一面を埋めそうなほどにウインドウを多重展開してのめり込んでいる。
一度集中するとなかなか戻ってこない主の代わりに執務室での応対をするのは、近侍である彼の役目だった。
「あ、兄弟」
執務室の外に出ると、堀川国広が待っていた。両手を埋めるものを見て山姥切は得心した。
「主さんは今日も好調みたいだね」
「ああ。見事に没頭している。少し待っていてくれ。ついでに休息を入れさせる」
「うん、よろしく。ありがとう」
審神者の癖は本丸全員の知るところだった。
執務室に用があって向かっても、近侍である山姥切が応対したなら彼らの主はよく集中して仕事に没頭中。そのまま近侍が用件を受けるようなら執務続行の判断で、出向いた側としてはいささか残念な結果。近侍の取り次ぎを挟んで審神者が顔を見せてくれれば儲けもの。最初から審神者に会えるのはかなり運が良い方だ。
執務室へのお伺いはある種の運試し、小さな賭け事のようにすらなっていて、事を知った近侍は眉を顰めたが、皆の楽しみを奪うなと、笑って宥められた過去もある。
「少し早いかと思ったけど、今日は『勝ち』かな」
堀川はくすりと小さく笑った。
「主」
山姥切は、彼の主の横に片膝をつくと、周りが見えていないらしい横顔に向かって呼び掛けた。
はたり。瞬きがひとつ。続けてふたつ、みつ。集中が切れて、糸が弛んだように力が抜けたのが、ほんの僅かな差としてあらわれる。一瞬の移ろい。たとえば肩や背筋の丸み、呼吸に合わせて上下する胸元、あるいは頬や唇の力み、収縮する瞳孔。繰り返し横で眺めてきた近侍だけが、主のどこがどう変わるのかを知っている。己の呼び掛けひとつで。どれほど。
「えっと、呼んだ、よね」
振り向けば近侍の姿が目に映る。審神者は苦笑いとも照れ笑いともつかないはにかみを溢した。釣られて山姥切の口端にも笑みが浮かぶが、見られる前に彼は腰を上げてしまった。
「少し早いが休憩にすると良い。……遮ってしまったが良かったか?」
「うん、大丈夫。編成を考えていただけ」
山姥切の歩みを目で追えば、障子の向こうに影がある。待たせていたのか、と気付いて審神者は画面を払った。期間指定の特別任務も終わって、通常の合戦場向けの編成を考えていたのだ。急ぎの仕事でもない。
「お邪魔しますね、主さん。お洗濯物持ってきました!」
「堀川か、ありがとう。待たせてごめんね」
「いいえ、こちらこそお仕事の邪魔しちゃってごめんなさい」
堀川はにこにこと機嫌よく洗濯物を手渡した。執務室に置いておくための布巾やタオルの類、執務室にいる時間が自室にいる時間より長そうな審神者と近侍の私物がいくつか。
受け取った審神者は、ふかふかだ、と呟いたあと、こてりと首を傾げた。
「そういえば堀川。この時期のお洗濯、干すの難しいでしょう、大丈夫?」
「そうですね、外で干せないので……。でも、ある程度傷んでも平気なものは乾燥機使ったり、それ以外は扇風機掛けたり。あ、シャツなんかはかえってアイロン掛けしやすいですよ。なんとかなってます」
「そっか。いろいろ工夫してくれてるんだね。ありがとう、助かる」
苦労などしていないとばかりの笑顔を見て、審神者も頬を緩めた。大人数になってきた本丸では手伝える人手こそそれなりだが、まとめ役は固定されがちだ。負担になっていないかと気がかりでもある。当の本人たちはなかなか楽しそうなので取り越し苦労かもしれないが。
「それじゃ、僕はこれで」
「うん、お疲れさま」
「兄弟も休めるときには休めよ」
「兄弟こそ! 主さんと揃って真面目なんだから」
「わかっている」
二言三言、ぽんぽんと軽口を交わして、堀川は足取り軽く去っていった。
去りゆく背中から視線を戻し、審神者と近侍は顔を合わせて小さく笑い合った。ぱっと差し込む日差しかあるいは咲く花か。明るく心配りの上手な彼、この本丸の最初の脇差には助けられてばかりの自覚がある二人である。
「あ。雨降り始めてたんだね」
外の景色に目を遣って、ようやく審神者は地面を濡らすものに気が付いた。しとしとと柔らかい雨音は、集中しきった意識の内までは踏み入ってこなかったらしい。
「国広、散歩に行こう。紫陽花が見たい」
「あんたはまた唐突に」
「体伸ばすのにちょうどいいでしょう。ここ最近暑くて紫陽花が萎びてたの気になってたし。見たい」
「萎びてたのはあんただろう」
「仕事はしてました」
「知っている。責めているわけじゃない」
言い合いながらも足は縁側を進んでいる。庭に降りるなら執務室から直接ではなく、離れに繋がる渡り廊下を回った方が良い造りなのだ。傘や履物もそちらの方が揃えが良い。
「そら、履物はこれで良かったか?」
「えっとね……、あ、そう。それ履くつもりでいたの、ありがとう。国広も、傘どうぞ」
「ああ。あんたそれで寒くないか?」
「大丈夫。国広こそ平気?」
「問題ない」
下駄の鼻緒に足を通そうとした審神者の視界に、すっと手のひらが差し出された。顔を上げれば近侍殿が既に縁を降りて待っている。反対の手には開いた傘さえ携えていて、いつの間にこんなにもエスコートが上手くなっていたのかと、審神者は小さな驚きに笑うしかない。
手を借りながら、考える。わかっている。彼の気遣いがわかりやすくなったのは修行から帰ってきてからだ。けれど、本当はもっと前からだったのだと思う。
真面目な彼のことだ。初期刀として、努めて周りの振る舞いにも気を配っていたようだから、こういうわかりやすい優しさは、たとえば長船の刀たちから、先回りした心配りは、たとえば長谷部や堀川から、見て学んでいたのだろうと思う。不器用だから、言葉が足りなかったり、写しの分際で、とか考えて行動に移せなかったりしたのだろう。きっと。
贔屓目で買い被り過ぎかもしれないけれど。審神者は内心苦笑しながら、傘を開いた。
「……機嫌が良さそうだな」
「んー? うん、そうだねぇ。今日は涼しいから」
「本当にあんたは暑いのが駄目だな」
「きらい」
「そうか」
「うん」
しとしと、ぱらぱら。柔らかい雨が庭木を揺らしている。草木のさざめきの合間に、蛙の鳴き声。耳に入る音は途切れないのに、どこまでも静かで、審神者は雨の日が好きだった。
からり、ころり。下駄が鳴る。
今年の梅雨にと、少し前に爪革を新調したばかりで、雨の降るのをひそかに楽しみにしていたのだ。自分で出すつもりでいたのに、先んじて用意してくれた、近侍の気遣いも審神者には嬉しかった。
青もみじが濡れて重たげにしなだれているのを避けて進めば、鮮やかな青が目に入った。
「わ……。よく咲いたねぇ」
青、白、紅、紫。濃淡の異なる花々が、見事に色を競って咲き誇っている。
植えて数年経つ紫陽花たちは、どの株も審神者の胸元まで迫るほどに大きくなってきているが、少し覗き込めば、足下にそれぞれの品種の名を記した札が立っているのを見つけられる。
隅田の花火、白拍子、楊貴妃、雷電、羽衣の舞……。
短刀たちが、一つひとつ削って書いて立ててくれた札だ。汚れや痛みが少ないところを見ると、紫陽花の手入れと同時に、札も時折手入れされているのかもしれなかった。
審神者自身は、紫陽花は放っておいても比較的綺麗に花を咲かせてくれる庭木だと記憶している。けれども、枝の広がり方から花の付き方、がくの色まで、今目にしている紫陽花たちはずいぶんと美しく整えられている。気にかけてくれている誰かがいるのだ。
世話になってばかりだ。審神者はため息まじりに苦く笑った。
今や大所帯となったこの本丸を、日々滞りなく回せているのは、気遣い上手な何振りかと、協力的なたくさんのかたな、関わり合いが苦手でも徒らに邪魔はしない幾振りかの、つまりは本丸全員のおかげなのだ。
まだ至らないところの多いだろう、年若く経験も浅い主を、誰も彼も否定しない。時に助け、時に助言し、時に甘やかして、共に歩んでくれている。
感謝しているし、皆の優しさはとても嬉しくて、毎日が愛おしい。そしてそれゆえに、未熟な己が情けないと思う日も、少なからずある。
審神者は、ついつい歩みが遅くなっていたことに気付いて顔を上げた。数歩先を行く、近侍の背中が目に入る。
何より、このかたなには、初めの一振りには、すっかり頼りきってしまっている。
雨の日も、晴れの日も。強がって笑ったいつかのときも、堪えきれずに涙を溢したたくさんの夜も。傍に置いていたのはこの刀だった。
初めのうちはあたふたと、そう、泣いているのはこちらだというのに、うろたえ困りきった様子で、ただただこちらを見ているだけのこともあった。写しに何を期待している、と言われて、いいからそこにいてくれとねだったことなど思い出すだけで恥ずかしい。
だというのに、いつからか、黙って隣にいてくれるようになり、タオルやティッシュを差し出してくれるようになり、俺で役に立つかは知らんが、と、自発的に、けれど静かに、話を聞いてくれるようになった。今ではもう、頬を拭う指先の優しさまでも、知っている。
「主、雨脚が強くなってきた。そろそろ戻ろう」
不意に落ちてきた声に、審神者ははっと肩を震わせた。
振り返る山姥切の碧い瞳が、覗き込むように窺い見ている。ばらばらと傘を叩く雨音が少しばかり重い。
「どうした? 何か気掛かりでもあったか」
「あ、ううん。大丈夫、少し考え事」
「それは相談が要るやつか?」
「じゃないやつ」
「ならいい」
からり、ころり。下駄の音が心持ち早い。これ以上雨が強くなる前に戻ってしまいたいのだろう。
「国広」
「なんだ」
「それ、着てくれてありがとう。似合ってる」
審神者は前を歩く背中に声を掛けた。このところ暑くなってきて、近侍が着流し姿でいることも増えていた。老舗の呉服屋が監修している着物とあって、和装好きの審神者は喜び勇んで小判を払ったのだ。まだ雪積もる冬の最中のことであったが。
「あんたが気に入ったんなら良かった」
「うん。国広のは落ち着いた色だから、紫陽花とか花菖蒲とか、この時期の花にも合うだろうなぁと思ってたんだ。見てみたかったの」
「あんたは本当に……。こういうのは自分が何を着るか楽しむものじゃないのか」
「それ国広が言うの? まあ、自分のも選ぶ楽しみはあるけど、自分の姿って鏡に映さないと見えないでしょう? 人のを選ぶ方が楽しくて」
「そういうものか」
「私はね」
屋根の下へ戻ってきて、傘を畳む。審神者は山姥切から傘を受け取り、山姥切はタオルを取って審神者の手が空くのを待つ。大きさの異なる二本の傘、二枚のタオル。
一つひとつ言葉を交わさなくとも相手の次の動きを気遣い合える。隣に立つ近侍と過ごした時間の長さを思って、審神者は顔をほころばせた。
「国広」
「なんだ」
名を呼べば、冴えた碧の瞳が真っ直ぐとこちらを見返してくる。
初めから、己を卑下する癖の強かったその頃から、このかたなの見返す視線は真っ直ぐだった。
その碧色が、積もり積もって、審神者の胸の内を満たしている。彼がいるからこそ、審神者として恥ずかしくない姿であろうと背筋を伸ばして立てるのだ。
感慨を瞬き一つで押し込めて、審神者は笑った。
「今日のおやつはなんだろうね?」
「歌仙の担当の日だったと思うが」
「じゃあ和菓子かな」
「煎茶にするか。あんた冷えただろう」
しとしとと雨は降り続いている。緑の木々を洗い、紫陽花に色艶を増して。
初出:2020年6月21日
加筆:2024年6月21日