滲み入る熱

 冬の手入れは心地の良いものだ、と思う。  居住まいを正した審神者に刀を渡す。  そこからは互いに言葉が無くなり、静寂が場に満ちていく。  微笑して両手の上に受け取った審神者は、捧げ持つようにして目礼し、一度体の前にそっと置いた。  脇に置いた幾つかの道具のうちから懐紙を一枚、指先で抜き出して取り上げ、口許へ持っていく。薄く唇を開き、懐紙を咥える。  再度刀を両手で持ち上げ、今度は丁寧に深く、礼を捧げた。  審神者曰く「習った型をなぞっているだけ」だそうだが、指先から触れて慎重に持ち上げる所作も、たっぷり三秒の辞儀も、彼には少しも不快に思うところがなかった。  審神者は体を右に引いて斜めに向くと、鞘尻を前方へ遠ざけるようにして腿に乗せ、鯉口を手元に寄せた。つかと鞘にそれぞれ手を添え、右の親指を鞘に当て、鯉口を切る。はばきが抜けて緩んだところで、両腕をゆっくりと引いて刀身から鞘を払った。  鞘を体の脇に静かに横たえ、さっと刀身に目を走らせる。先を照明に向けるようにして持ち、光の当たる位置を軽く調整して、刃先から元へ、裏に返して、きっさきから鎺元へ。  審神者の目がふわりと細まる。反射した光が砕けて煌めく。懐紙を咥えた唇が浅く弧を描く。彼は聞こえない声を聞いた。 ——綺麗。  審神者は刀身の先を刀枕に預けて、体の前に縦向きに置いた。柄に触れ、刀身を留める目釘を抜く。左手で慎重に刀を取り上げ、体の右側に寄せる。刃を外側に向け、鋒は左へ倒し、刀身を体の前に斜めに構える。柄をきちっと握り直し、その手首の上を、右の拳で、とん、と強く叩く。  ……抜けない。毎度試みてはみるのだが、審神者が彼の刀をこのやり方で柄から抜くことができた試しはなかった。実戦に用いる刀が鞘から容易に抜けないことは、良いことではあるのだが。  苦笑して一度刀を下ろし、道具のなかから、刀を拭うのに使う皮革様の布と、小ぶりの木槌を取り出す。養生のために布で覆い、つばの中央付近を木槌で軽く、とん、とん、と叩く。  とん、とっ。なかごが僅かに抜けて緩んだ。  木槌を置き、柄を握る手首を改めてとんっと軽く叩く。  茎が抜け出て浮いたところで、緩んだ鍔を掬い上げるように手を差し入れ、茎を親指と人差し指、中指でしっかりと持ち、とうとう柄をするりと抜いた。  安堵したようなごく小さな吐息が審神者の鼻から零れ、柄は鞘の脇へ、刀は刀枕に寝かされる。審神者は改めて茎を持つと、切羽と鍔を一揃い、次いではばきを刀身から取り去った。  こしらえも鎺も全て外した、裸の刀身。  一拍、じっと目を落とした審神者は、指を伸ばし、茎に触れ、握り込み、刀の先を枕から浮かせた。  その一瞬、審神者の口許が笑みを浮かべるのを、山姥切国広は目に捉えていた。  その一瞬、鉄の塊にじわりと人肌の熱がみるのを、彼はどこかで感じていた。  冬の手入れは心地の良いものだ、と思う。  冬の外気に、金属は易々やすやすと熱を消し去る。手入れの機会を得る度、その冷えたなかごに、審神者の指の温柔な熱が滲み入った。決して体温の高くないはずの彼女の手が、それでも確かに命の熱を放っていることを、冬の冷気はつまびらかにするのだった。  刀が熱を感じるはずはない。刀は物だからだ。生き物の神経を、知覚を、刀は持ち得なかった。  そのはずなのに、山姥切国広は、おのが刀に人が触れる様を、その身に感じ取ることができるような気がしていた。どこかで。あるいは身の奥底で。あるいは肌の表面で。  かつての主が己を握り振るい戦った、その手のひらを彼は知っている気がした。覚えている気がした。  今も。審神者が己を手入れする、その手のひらを、指先の温度を、彼は己の身に感じ取っているような気がしていた。  審神者は手入れを進めていく。  刀身を布でひと拭いすると、道具の中から打ち粉を取り出す。の詰まった丸い棒先をとんとんと手の甲に当てて粉の出を確認すると、刀身に軽く打ち付けていく。  刀の肌を擦って傷つけてしまわぬよう慎重に、刀の背、むね寄りの鎬地しのぎじを、元から先へ、ぽん、ぽん。ぽん、ぽん。打ち粉をはたいていく。  裏に返して、はばき元から》きっさき、ぽん、ぽん。ぽん、ぽん。  等間隔に薄く打ち粉を打ち終えると、厚地で柔らかい上質の薄葉紙ティッシュを一枚、箱から抜き出す。  右の手でさっと払って広げ、畳み直す。人差し指と中指、親指。三本の指の先がそっと刀身を挟み、元から先へ、つい、とティッシュを滑らせ、打ち粉を拭ってゆく。  肉付きの薄い平地ひらじを、鎬地に掻き通された棒樋ぼうひの溝の内側を。  粉を残らずきっちり拭い去って、刀枕に戻す。  道具のなかから柔らかな綿布ネルと油の瓶を取り出す。油の瓶を開け、ネル生地に僅かに油を染み込ませる。布を軽く揉んで油を馴染ませ、再び刀を取り上げた。  棟から刀身を包み、鎺元から鋒へとすぅっと撫でる。指先が小さく畳んだ白いネルの端切れを押さえ、刀身に薄く油を撫で付けていく。  一筋の塗り残しも無いように。べったりと塗り過ぎてしまわぬように。薄く、均一に。  鎺元から、鋒へ。薄い平地を、表裏の棒樋の溝を、鋭く光る鋒を。丁寧に、迷いなく、慎重に。  刀身に油を塗り終えると、ネルを置き、油の残る指先で、すり、となかごを撫でた。長い銘が切られた茎の表裏にも、気持ちばかりの油を塗り付ける。  それも済ませると、もう一枚ティッシュを引き抜き、畳み、再び刀身を拭う。塗った油をほとんど落としてしまうために、撫でるような柔らかさで拭っていく。  鎺元から鋒へ。平地を。鎬地の棒樋を。一度、二度、と撫でる。  拭い終えた刀身を、再び審神者は照明にかざした。  曇りの無い刀身が光を弾き、転がす。玉鋼の肌の上で、火花が散り、桜花の花弁が舞った。  審神者が、それは嬉しそうに顔を綻ばせた。  左手が脇に置いた布を探り当て、刀身を掬い、両の手で持って安定させる。  差表の刃文を先から元へまじまじと眺め、裏に返して、またとっくりと目でなぞっていく。  細部まで脳裏に焼き付けんとばかりに、目を見開くようにして、真剣に、しかし楽しげに審神者はその刀を見つめている。  山姥切国広は、最早周りが見えていない審神者の表情を、斜向かいから静かに眺めていた。  彼女の射干玉ぬばたまの瞳に、憧憬や賞賛、歓喜に愛慕……、あらゆる好感の情が光となって瞬いていた。彼が刀を渡す度に審神者の瞳にあらわれるその景色は、彼が知る限り一等美しい夜空だった。  一頻ひとしきり鑑賞すると、審神者は刀身を最後にもうひと拭いして、刀枕に置いた。  はばきを差し入れ、切羽、つば、切羽、と刀装具を再び着せていく。鍔が落ちないように支えつつ、刀を持ち上げてきっさきを天井に向け、なかごをもう片手のつかに差し込む。そしてそのまま、柄頭つかがしらを手のひらに、たんっ、と打ち付ける。  茎が柄にしっかりと収まり、鞘と茎の目釘穴が綺麗に揃っているのを確認して、目釘を差し入れる。  鞘を引き寄せ、鋒の背を鯉口に触れさせる。刃は上に向け、棟を鞘の内側に滑らせるように、静かに、するりと刀身を鞘に納める。  鎺までがきっちりと収まり、審神者は小さく息を吐いた。最後に今一度刀を両手で捧げ持ち、頭を下げる。  礼を終えると両手を下げ、咥えていた懐紙を取り、審神者は山姥切国広に向き直った。 「ありがとう、お待たせしました」 「こちらこそ礼を言う。ありがとう」  柄を左手に持ちかえて、両手で刀を差し出す。山姥切も両手でそれを受けた。審神者は愛おしげな視線を刀に残して、ふと笑みを浮かべた。 「冬は茎も冷たいのよね。刀が鉄で出来ているのだってことを、そのときにいつも思い出すの。ちょっと変な言い方だけどね、思い出すの」 「あんたが笑ってたのはそれか」 「あ、笑ってた? ごめんなさい、持つうちに手の温度に馴染んでいくのが、ちょっと楽しくて」 「あんた冬好きだからな」 「そう……、そうね。これも冬ならではだから」 「そうだな」  山姥切の口端に明確に笑みが載るのが見えて、審神者は目を瞬いた。何かしら思い入れがあると、日頃変化に薄い彼の表情も深まるらしい、ということは審神者にもわかっているのだが、その内面までを彼が話してくれるかどうかは運次第というところだった。  山姥切は刀を下ろして下げ緒を結び直し始めている。今日は話してくれないらしい。残念、と審神者は内心で笑って、紐をするすると操る山姥切の指先を眺めていた。 「あ。ねぇ、そういえば、なんだけど」 「ん?」  下げ緒を結われた拵えが腰に戻るところまで見届けた審神者が、思い出したように口を開いた。 「今さらなんだけど……。私のお手入れの仕方って、現代の作法だから、多分どちらかというと美術刀剣用じゃない? 良いの?」 「あぁ。……良いんじゃないか。あんたの手入れは、あんたがすることに意味がある」  審神者の問いに、山姥切はさほど悩むことなく答えた。むしろその端的な答えに審神者が首を捻っている。 「? あー、霊力とかそういう?」 「そうだ。あんたの手入れは古い汚れを落として錆を避けるためのもので、作法自体はそう変わらないはずだぞ。油を塗るのと同じく、あんたの霊力が俺たちから邪気を遠ざける」 「あぁ、なるほど。あれってそういう儀式なのね」 「俺はそう了解している。詳しいことは御神刀連中にでも聞いてくれ」 「ん、すごく納得した。今度聞いてみる」  審神者は素直に頷いた。  刀の扱い方も、霊力の概念も、どちらも習ってはいるのだが、いまひとつ深い理解が追いついていないところがある。心を込め、祈れば、それが審神者の霊力に繋がるようだったが、見えるわけでも触れられるわけでもないだけに、未だに雲を掴むような話だと思っていた。  まぁいいか、と審神者は頷いた。己の力が、手入れが、大切な刀を守ることにきちんと繋がっているのだと、手入れを受ける側から教えてもらえたのは良いことだった。何も不安に思うことはない。  気持ちが丸く納まって、ならばと審神者は気兼ねなく意識を想像に浮かばせた。まだ瞼の裏に白銀の輝きが残っている。 「うん、今日もとっても綺麗だった」  山姥切が僅かに肩を跳ねさせた。この審神者らしい真面目な話をしているかと思えばこれである。決して嫌なわけではないのだが……、刀好きの顔になったときの審神者の臆面の無さは、いつも山姥切を当惑させた。 「……そうか」 「うん」  くすくすと審神者は笑って頷いた。山姥切の腰の刀をちらと見遣り、それから視線を宙に浮かせる。 「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける、ってところかしら」 「……、……百人一首か」 「そう。上の句はうろ覚えだけど」 「……あんた前に桜って言ってなかったか」 「あら、好きな刀を褒め称えるのに表す言葉がひとつで足りるわけないじゃない」  にこっと審神者が悪戯っぽく笑う。  煌めく夜空の名残りを目にして、山姥切は息を吐いた。この審神者は事ある毎に山姥切を何かにたとえて褒めたがった。刀身も、人の身も。  もう山姥切も、受け取ることを躊躇わない。よくもまあそこまで、と呆れにも似た感嘆の気持ちはあるが。 「あんたも飽きないな」  そんな言葉を投げられて、審神者は目を瞬かせた。  苦笑混じりに眉を下げて、こちらに向ける眼差しは柔らかい。山姥切のその様子に、審神者は遠い声を思い出した。 ——どうせ写しには、すぐ興味が無くなるんだろう……。わかってる。  むずむずと口許が緩む。あたたかいものが胸の内に込み上げる。嬉しかった。今の彼はもうあんな言い方をすることはなく、審神者ももう彼の言葉を一つひとつ否定する必要はない。 「飽きないよ。だって、いつ見ても本当にとっても綺麗なんだもの」 「……あぁ。俺は堀川國廣の第一の傑作で、あんたのための刀だからな」  綺麗だ、と、敢えて審神者がその語を選んだことに、山姥切も気付いている。幾度も確かめた己の価値を、今日もまた言葉に載せる。この主の元にあれば、己の価値に悩むことはない。主のために己は在ると、誓いにも似た言葉を繰り返す。主従の間に、研ぎ減らぬよう刻み込む。 「国広だって飽きないよねぇ」 「聞き飽きたか?」 「まさか。いつも嬉しいよ」 「それなら良い」 「うん。だから私もいっぱい褒めるね」 「……わかった」  力の抜けた、ゆるゆるとした会話。  茶化すように笑いながらも、審神者は内心安堵していた。  迷いを払った山姥切の自負と信頼は、彼女が主で良いのだと、彼女を勇気付けるのに十二分の役割を果たしていた。己の価値を不安に思うのは、修行前の彼ばかりではない。 「ふふ。さてさて、それじゃあ次のお手入れにいきましょうか」 「……他の奴にもやってるのか」 「え?」  立ち上がる審神者に、山姥切が問い掛けた。  このところ強敵の多い合戦場への出陣が増えており、その労いのために手入れをしようと審神者が言い出したのだった。  だが山姥切が言いたいのは手入れのことではない。手入れの後のことだ。一寸ちょっと悩んで、審神者も彼が言わんとすることを理解する。 「あー……、うん、言ってるね。詰んだ板目がすごく良いとか、鎬筋が締まってて良いとか、にえが眩しくて良いとか。言ってる。……だめ?」 「……いや……、……言ってやれ。あいつらも喜ぶ。  皆名剣名刀だから褒められ慣れている奴もいるだろうが、あんたの言葉はあんたの霊力に劣らず心地良い」  しばしの逡巡を挟んで、山姥切は苦笑した。  花吹雪のような賞賛の言葉はこの上もなく甘美で、それが己だけに向けられるものでないと思うと惜しい気はしたが、それが至上のものだからこそ、己を奮い立たせるものだとよく知っているからこそ、本丸の皆に与えられるべきものだとも、彼は思っていた。  そもそも、山姥切が許可を与えるようなものではないのだ。それでもつい、遠回しな恨み言を口にしてしまうのは、彼女の夜空の瞳と賛美の花吹雪が、あまりに明け透けで、彼女の心そのものに等しく思えたからだ。彼女の心を受け取るのが己一振りであるならと、胸を掠める思いはあった。 「ん。……聞き飽きただろうこと、言う?」  頷いた審神者が、山姥切の瞳を覗き込んだ。  胸中を察されていることに羞恥を覚えたが、彼は観念して言葉をねだった。 「……聞き飽きてはいないから、言ってくれ」 「はぁい。……一番は、山姥切。きっかけも、一番大切なのも。一振りを贔屓するのは良くないかなって思ってたけど、どうしても好きになっちゃった。私のための傑作って言われたら、ねぇ?」  真面目な顔になって話し始めた審神者は、けれどやがて相好を崩した。瞳がとけて緩み、弧を描く。 「大好きだよ。私の大事な初期刀様」 「……ありがとう。俺もあんたと、あんたの心が好きだ」 「ん、ありがと。……ふふ、だめだ照れる」  山姥切の返礼に、審神者はいっそう頬を緩ませて、それを片手で隠そうとした。  ふわりと赤らむ頬と耳に、山姥切の胸にもあたたかいものが満ちていく。  冬の寒さを、今はどちらも忘れていた。

初出:2023年2月23日 pixiv
加筆・タイトル変更:2025年2月23日

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