この麗らかな春の日に
「――はい。はい、では今月もよろしくお願いします。はい。失礼致します」
ふつり、画面が消えたのを確認して、ほっと息をつく。
月初めの、担当官との定期面談だ。前月の戦績確認から始まり、新しい刀剣男士が本丸に増えたかどうか、その練度はどれだけ上がったか、当月はどういう特別任務があって、どういう方針で本丸を運営するか……、等々。
数字をなぞるだけの確認事項もあるが、手を抜いてもいられない。練度上げの状況をこまめに訊かれたり、戦力拡充の鍛刀を推奨されたりする度に、ちらりと陰に覗くのは、決して明るくはない戦況だ。
「ありがとう、山姥切。毎度のことだけど長時間付き合わせてごめんなさい」
「いや、構わない」
半ば形式的であるとはいえ、あれやこれやと確認事項があって、さらっと終わっても一時間は掛かる。その間は近侍も側に控えることが求められているから、彼には毎月のように付き合ってもらっている。
定期的に面談があるのも、近侍を側に置くのも、閉鎖的になりがちな本丸での審神者と刀剣男士の関係を見るためとはいえ、申し訳ない気持ちは募る。
「休憩しよ。お茶淹れるね、少し待ってて」
「菓子でも取ってくるか」
「あ、待って。いいの、今日は用意してるから」
腰を上げた彼を引き止めて、戸棚に置いていたお茶菓子を取り出して渡す。保温ポットのお湯で煎茶を淹れる。誰かさんには怒られるかもしれないけれど、お湯を冷ます時間も惜しい。細かいことは気にするな、でしょ。
「よし、おまたせ」
二人分の湯呑を持って振り返れば、近侍様は静かに待ってくれていた。
毎月一応まじめにやっている面談も、今日ばかりは早く切り上げてしまいたかった。面談がある日だからこそできることではあるのだけれど。
「お花見しよ、国広」
「ああ。なるほど、それでか」
「桜餅? いいでしょ、雰囲気出て」
ふ、と少し口端を緩めた国広は、菓子皿を器用に片手で持つと、障子をすらりと開け放してくれた。
あたたかい陽射しがいっぱいに差し込んでくる。桜の花は盛りに差し掛かりの、七分咲きといったところか。その花がやわらかく照り映えるのも、それを見る彼の横顔が春の光に照らされて、髪の金色や瞳の碧をわずかに透かすのも、
「綺麗だねぇ」
「き、……っ」
苦み走った顔で口を噤んだ彼は、きっと反射でお決まりの台詞を言い掛けて、桜のことだと思い直したんだろう。
「どっちもだよ」
ぐ、とますます眉を寄せた彼を見て、思わず笑いが溢れてしまった。
「い、いから笑ってないで座れ! 人払いしている間にやりたかったんだろう」
「ふふ、そう、正解。みんなとどんちゃんやるのも良いけどね。ここの景色も綺麗だから、国広と二人でお花見したいなぁって、思ってたの」
面談の間は、余程のことがない限り、執務室には寄らないように言ってある。聞かれて困る話もそうないけれど、ざわざわしていると私が落ち着かないのだ。
縁側に二人腰掛けて、湯呑と菓子皿を交換する。古今東西の生まれの刀が集う中で、この本丸で桜餅は、道明寺と長命寺、どちらも揃えることにしている。
今日厨から頂戴してきたのは薄皮で巻いた長命寺の方だ。私も本丸に来る前は関東の生まれ育ちだったし(とはいえ家で食べるのは道明寺だったけれど)、彼も打たれたのはおそらく足利といわれているから、関東風でいいだろう。それに私は知っているのだ、彼の故郷(推定)の、芋ようかんで有名な和菓子屋さんの桜餅が、もちもちの長命寺皮にたっぷり餡子の桜餅だと!
「んー、おいし。やっぱりお茶もう少し丁寧に淹れるべきだったかな」
「いや、いいんじゃないか。あんたの淹れる茶はいつも美味い」
「そう? ならいいけど」
ふわり、ひらり、と、時折舞い落ちる花びらを目で追い、爛漫と咲くみごとな枝振りを眺めていると、ゆるゆると肩の力が抜ける心地がする。きれいだ。
「いつも、さ。みんなの誉桜は見てるけど、やっぱり、今盛りなり、っていう桜を見るのはまた格別だねえ」
「そうだな」
相槌を打つ声音もどことなくやわらかくて、緩む口許を湯呑で隠す。
「あったかくなってきて、つぼみも少しずつ膨らんで、一輪、二輪、って花開くのを数えるのも、五分咲きに届くくらいの、ああ春が来たなあって思えるのも、どの時もうれしくて、きれいで好きだなあ。いよいよ満開を迎えて、気の置けない人たちと春を喜ぶのも、散り際まで、全部」
「ああ」
桜はやっぱり好きだ。古い日本語では、咲くことを「笑う」とも表現したようだけれど、言い得て妙というか、その感性はよくわかる気がする。擬人法としても、花に集う人と思っても、そこには笑みが浮かぶ気がするから。
「花見は、今日のこれぐらいが丁度いい」
静かで暖かくて、いかにものどか、といった風だったから、考え事の最中に落ちてきた彼の言葉を、あやうく拾いそこねるところだった。
振り仰いだ彼の横顔は、穏やかに凪いでいる。
「これぐらい?」
「ああ」
目線を返してきた彼は、今度も小さな笑みだけ寄越してぼやかしてしまった。
これぐらい。咲き加減の話をしていたから、きっとそうだと思うけれど。なんだかそれより広い気もして。
花盛りに差し掛かる七分咲き。本丸内の喧騒は少し遠く、陽射しは穏やかにあたたかくて、心までゆるやかにほころびそうな昼下がりに、二人。
ああ。そのすべてが、ちょうどいいのだと、思ってくれるのなら。私はそれで十分に、しあわせだ。
「そういえばね、国広」
名を呼べば、こちらを向いた彼が、促すように首をかしげる。
さらりと揺れる髪も、透き通る碧い瞳も、ああ、やっぱり綺麗。
「国広とお花見がしたいなぁって思った流れで、「うららか」って言葉を、調べたの」
数日前だ。その日も穏やかに晴れていて。
「たしか春の季語だったなと思って。今日みたいな、晴れていて、日が柔らかくのどかに差していること」
端末で辞書を引いた。一つめ、知っている意味。言葉から思い浮かべること。
「それから。声が晴れ晴れして、楽しそうなさま」
国広の目の前で、二本めの指を立てた。
「もう一つ。心にわだかまりがなくて、おっとりしているさま」
薬指も立てる。国広の碧い瞳は、ずっとこちらを静かに見ていた。
「それを見てね、極めた後の国広みたいだ、って思ったの。あなたの声を聞いて最初に思ったことは、「顔が前を向いている人の声だ」ってことだったし、あなたの心にもうわだかまりがないことは私もよく知ってる。
だからね、国広だって思ったの。なんだかそれが嬉しくて。
前から桜の似合う綺麗なひとだとは思ってたけど、国広、心までよく似合うひとになったんだね」
それを、伝えたかった。みんなでわいわいお花見をする中では、きっと言えなかったこと。
目の前の国広は、最後まで目を逸らさなかったけれど、まばたきが増えて、じわじわ目尻が赤く染まって、結局ふいと体ごとそっぽを向いてしまった。前髪をぐしゃりと掴んでいるのは、布を外した彼が幾多の空振りの末に掴んだ、顔を隠す術。
ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。指先に触れると溶けるように消えてしまうそれは、彼の霊力で咲く誉の桜だ。
初出:2020年4月1日 pixiv