呼び声

「まんば」 「綺麗だね、まんばちゃん」  声がする。そよ風にさざめく葉擦れの音よりも微かな、人のささめき。 「まんばくん」 「まんば綺麗だねぇ」  さっきから繰り返されるそれは呼び名か?  ずいぶんと珍妙な響きだ。 「やっとまんばを見に来られた」 「会えて嬉しいよまんばちゃん」  名にしては珍妙だが、柔らかい響きだ、と思う。  声の調子に混ざるのは、感嘆と、敬意、と、これは……あぁ、慕わしさ、だろうか。 「まんば」 「まんばちゃん」  密やかに降りしきるそれを、日がな一日、いや、このところ毎日、ずっと、耳にしている。  誰を呼ぶ名なのだろう。  その称賛と、崇敬と、思慕は、誰に、いや、何に向けられているのだろう。  ああ、羨ましいな。  他の何と比較されることもなく、優劣を付けられることもなく、純粋に、親しみの籠もった声で人に呼ばれ、称賛され、親しまれる。  この限り無く優しい響きを、止めどなく注がれるのは、どんな—— 「国広ー? っと、寝てたか」 「ん……、……主?」 「ごめん、起こしちゃったね」 「いやすまん……」  どうも少し居眠りをしていたらしい。  審神者が両手に持っていたマグカップを座卓の上に置いている。 「めずらしい、ぼんやりしてる」 「……夢を、見ていた」 「そっか。良い夢だった?」 「そう、だな……。今思えば、良い夢だったんだろう」  ゆらゆらと、マグカップから湯気が上がっている。  すぐに消えてしまうそれが温かいことを、今の俺は知っている。 「おそらく、まだ刀の頃の……こうして顕現する前の、俺の記憶だ。本物かどうかは知らんがな」 「へえ?」 「美術館に展示されたことがあったんだ、何度かな。ずっと、人の声が聞こえていて……」  消えかけの夢の内容を捕まえて、思わず呆れた笑いが零れる。 「まさか、あんな珍妙な呼び名が俺のだとは思わんだろう」 「珍妙? ……あぁ、わかんなかったのか、まんばちゃん?」 「それだ……。……あんたは使わないな、それ」  俺の指摘に、審神者は目を瞬かせて、笑った。 「国広にはね。たまに使うよ、よその山姥切国広には」 「……違うのか?」 「使い分けてる、ってほどじゃないけどね。一般に普及してるのよ、まんばちゃん、って呼び名。だからなんとなく口をついて出ることはあるかな」 「俺に使わないのは?」  審神者はこちらをじっと見つめてきた。  頭からとっくり眺め回すような視線に思わずたじろぎそうになる。  直ぐな眼差しが、柔らかく笑みを滲ませた。 「言ったことなかった?  山姥切国広、と、呼びたかったの。  あなたは山姥切の名を厭ったけれど、それでもね。  あなたは本歌ではないけれど、あなたの他にも國廣の刀はある。そしてあなたは自身で國廣の第一の傑作なのだと言っていた。  だから、あなたを表すたった一つの名を、極力丁寧に呼びたかったの、“山姥切国広”、と。  もう国広って呼ぶのに慣れちゃったけど。最初の頃はね、そう思ってた」  ああ。この声だ。  水面に広がる波紋のように、さざなみ立つ胸の内。  言霊に乗る霊力も勿論のこと、その声音の、その響きの、柔らかく、温かく、なんと甘美なことか。  讃嘆に、尊敬、愛慕を包み込んだ、信頼を寄せる相手に投げかけるそれ。  ずっとこの声で呼ばれていたんだ。 「……有難う」 「ん?」 「あんたに名を呼ばれるのは好きだ。  気遣いに、気付けずにすまなかったな」  審神者がまじろいで、返す言葉に迷うようにはにかんだ。  あのとき、あの名が俺を表すのだと気付いていたら、羨む気持ちを抱くことなく在れただろうか。  ……否、考えたところで過去が変わるわけでなし。  俺は、ここで、俺の名をとびきり優しく呼ばう主の為に、刀を振るえば良い。  迷うこと無く。他を羨むこと無く。  ただ、俺にできることを、ここに在る限り。

初出:2022年2月10日 pixiv
加筆:2025年2月22日

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