竜胆の追憶

 とんとん、と小さな音が耳に入った気がして、審神者はふと意識を画面から放した。今は執務室に一人。しんと静まった部屋で、物音が立つとすれば外からのおとないだった。執務室の入り口に目をれば、障子の向こうに人影が見える。気の所為ではなかったらしい。 「はい、どうぞ」 「福島光忠、主へ贈り物を持って参上仕りました」  低く、どことなく甘さを感じさせる声が名乗りを上げる。贈り物? 審神者は首を傾げた。 「どうぞ入って」  画面を払って消し、来訪者へと向き直る。さらりと障子を開けて入ってきた福島光忠は、顔を合わせるなりにこりと艶のある笑みを浮かべた。  彼もまた背が高いなぁと審神者は思う。成人女性としてもさほど背の高い方ではない審神者にすれば、刀剣男士は皆やたらと背が高い。 「今日はこの花を、君に」  すっと福島が差し出した手には、細身のガラスの器と、花がひと枝。 「竜胆リンドウ」 「そう。やっと見頃になったから、今年の最初のひと枝を」  どうぞ、と続ける福島から、審神者は花器を受け取った。  やや紫を帯びた深い青の蕾が、真っ直ぐな茎に段を重ねている。花瓶の口の上で、細い藍色のリボンが緩く結ばれて縁を長く垂らしていた。 「ありがとう」  審神者は微笑んで返した。近くの椅子を指し示して勧める。  九月に入るなり暑さが和らいだとはいえ、日中はいささか熱が残る毎日だ。暑さ嫌いの審神者にとっては未だ十分に「暑い」範疇で、今日も彼女が籠もる執務室には冷房が入れられている。  贈られた初秋の花はこっくりとした深い青が美しく、ガラスの器が涼しげだ。この花が盛りになる頃には、さらに暑さも落ち着いて、朝晩涼しくなるのだろう。  口許に笑みを浮かべる審神者を見て、福島は口を開いた。花を贈って、喜んでもらえるのは嬉しい。 「竜胆は古来から生薬としても利用されてきたようでね、疫病の草と書いて、えやみぐさという呼び名もあるんだ。病に打ち勝つところから、今日の花から贈る言葉は、勝利……だよ」 「勝利。良い花言葉ね」 「そうだね」  審神者は机上に花瓶を置いて、またまじまじと見つめている。 「君はその花が本当に好きなんだね」 「え?」  驚いて振り返る。福島は赤い瞳を細めて笑った。 「君がその花を好きだから、最初のひと枝を贈ると良いと教わってね」 「あら。誰に?」 「それは秘密にしておこうかな。彼はそういうのをひけらかすのは好きじゃなさそうだ」 「そう? 少し残念」  ふふ、と審神者は笑みを零した。なんとなしに見当はつくけれど、隠されてしまえば確信には遠い。 「竜胆が好き?」  ハスキーな声が問う。高い背に黒の装束、自然に纏う色気。魅力的な大人の男性、といった姿を取る彼だが、その声色はゆったりと穏やかで、眼差しは柔らかい。こういう、相手にむやみに圧を与えないところが、兄弟揃ってよく似ている。  片隅にそんな感慨を覚えながら、審神者は執務室の入り口、今は障子の閉め切られた、その先へと目線を投じた。 「竜胆好き、かな。秋が来るのがね、好きなんです。  暑いのが苦手だから。夏がようやっと終わって、朝晩の涼しい空気を肌に感じると、ほっとして肩の力が抜けるの。そういう時季に、咲く花だから」 「そっか」  それに。審神者は声には出さず想った。思い入れがあるのだ、この花の作る景色には。 「羨ましいな。君と、ここにいる皆は、そうやって君の好みを覚えるくらいに共に年月を重ねてきたんだね。凄いことだよ」  福島はそう言って目を細めた。その表情は、口惜しそうというよりも、眩しげな、純粋な憧憬に見えた。審神者は笑む。 「これからは福島も一緒ですよ。今日ひとつ、私の好みを知ってくれたでしょう?」 「うん、そっか。そうだね」  その後も、本丸での生活についてといった、他愛なくも疎かにできない雑談を交わし、やがて彼が辞去するのを見送る。  机に残された、秋の訪れの贈り物を眺めて、審神者はゆるりと笑みを浮かべた。また今年も、この季節が来た。    * * *  羽織物も取らずにつむぎ単衣ひとえで外に出て、審神者は満足そうに笑った。   朝五時半。この審神者の早起き好きの理由の一つが、夜明けの頃の気温の低さにある。  九月の頭、日によってはまだまだ暑いが、緑もそれなりに多い本丸では、日の出の時刻を過ぎた頃ならば幾分過ごしやすい涼しさになっている。  さくさくと軽い足取りで、審神者は迷い無く歩いていく。向かう先は竜胆の花畑だ。  あつらえたのは数年前のこと。遠征先や出陣先、本丸の畑で季節の収穫物を手に入れ、集め、万屋で苗と交換して、せっせと皆で土を耕し土質を整え植えたものだ。季節ごとの万屋のこの商売方法が、審神者は決して嫌いではない。  裏山の木々と境を接するこの花畑は、朝早くに来ると、ちょうど朝靄あさもやに木立の間から光が差して、本当に美しいのだ。  目的の場所に着いて、審神者は足を止めた。歩いてきたことで僅かに上がった体温を、息を吐いて朝の冷気に逃がす。  目の前の花畑は、白みがかった柔らかな緑で覆われている。昨日福島がくれたひと枝は、本当に最初の花だったらしい。濃い青の蕾の色は、まだちらほらと点在する程度だった。  息を吸って、吐く。深呼吸ほど大げさでなく、けれど少しく努めてゆったりと。朝方のひんやりした空気に、肌を溶かしてゆく。  この時間の本丸は、まだ静かだった。皆が起き出して食堂に向かうには少しばかり早いらしい。さわさわと弱い風が草を揺らす音、蟋蟀こおろぎの鳴き声、たまに雀のお喋り。聞こえるのはそんな自然の音ばかりだ。その中に紛れてひとつ、こちらに近付く音がある。審神者は気付いていながら振り向かなかった。 「体を冷やすぞ」  ふわり、肩に重みが載って、ようやく審神者は近付いてきたその影に顔を向けた。 「おはよう、国広」 「おはよう」 「羽織ありがとう」 「どうして自分で持ってこないんだ……」 「涼しいんだもの」 「だろうな」  はぁ、と聞こえよがしに溜め息を吐かれたが、審神者はふわふわと笑っていた。気遣いと諦めと。振る舞いの癖も好みも互いに知っているからこその気安いやり取りが嬉しい。  肩に掛けられたあわせの羽織はさらりと重みがあって、丈も袖巾そではばも審神者の身には余る。鼻に届くほんの微かな香の匂い。箪笥用に男士達に渡している防虫も兼ねた匂い袋の香り。 「ねぇ国広」 「なんだ」 「お花、ありがとう」  隣に立つ山姥切国広を見上げて、審神者は告げた。見返す碧の瞳はどこまでも静かで、彼は言葉を返さない。 「私が好きだからって伝えてくれたの、国広でしょう。……違った?」 「さあな」  素気ない言葉と裏腹に、声の響きは柔らかく、瞳はやんわりと細められる。  審神者は、ふ、と笑みを溢して花畑に視線を逃した。正面から向けられた温かな笑み――しかも彼にしてはずいぶんとはっきりしたそれ――に、じんわりと熱が顔に昇る。 「最初にこの畑が出来たとき……」  不意に山姥切が口を開いて、審神者は頬の火照りも忘れてそちらを見た。差し込む朝日が、山姥切の白い頬を照らしている。 「やっぱりあんたは朝一番にここに来た。夏の間中ずっと、暑いと言っては疲れたような顔をしていたあんたが、あの日はやっと息ができたみたいに目を輝かせてた。よく覚えている」  山姥切はそう言って小さく笑い、審神者の方に振り向いた。長い睫毛が影を落とす、その碧色を、審神者は絡め取られたように見つめていた。 「だから好きなのは、俺の方だ」 「そ、っか」 「ああ」  審神者は忙しく瞬きをした。山姥切の声が、表情が、ずいぶんと柔らかい。どういう風の吹き回しだろうと思ってしまうほど、今日は一段と、……慕情が滲む。  面映ゆさに堪え切れず目を瞑り、両手で顔を覆う。触れた頬が熱を持っている。くすくすと笑う吐息が降ってくる。  瞼の裏に、同じ日の景色が映る。  涼しくて嬉しかったのは、本当。やっと暑さが抜けた、その時季を象徴するような竜胆の花が好きなのも本当。でも。  あの日も、彼に見惚れていた。  白露はくろ、という二十四節気のその名の通りに、草木に露を置くしっとりと冷えた初秋の朝。薄靄の掛かるここで、やっと完成した竜胆の花畑を、山姥切とふたり並んで眺めた。  だれてしまうような夏の暑さが鳴りを潜めて、ひやりとした空気が心地好く背を伸ばさせる。差し込む朝日からもべったりした熱は消えて、靄が掛かっているのに金の光は透明だった。  その、景色に。  すっくと背筋を伸ばして立つ彼の姿が、よく似合っていて、美しかったのだ。澄んだ光が、彼の金の髪や白い頬を、さらりと照らして輝かせるのが綺麗だった。  「季節の景趣」と銘打たれて提供される草花から、審神者の中では一二を争うほど、白露の季節の竜胆の景色は、山姥切の清麗な雰囲気によく似合って見えて好きだった。  だから竜胆の花を好きになった。この季節が楽しみになった。  だと言うのに。彼女が見惚れたその男はといえば。審神者がその景色を見て喜んでいたから、それを印象深く覚えているから、竜胆の花が好きだとのたまうのだ。  なかなか熱の引かない頬を手の甲で抑える。常からの彼の眼差しのような、真っ直ぐとした好意が気恥ずかしく、やはり嬉しい。緩む口許を必死に引き締める努力をしながら、審神者はやっとのことで顔を上げた。  碧の瞳と視線が交わる。あぁやはり、この光宿る真っ直ぐな碧が好きだ。  ふ、とその目が細められる。 「今日のあんたの顔も、きっと何度も思い出すんだろうな」  愛で慈しむような柔らかな眼差しに、審神者が言葉に詰まる。今日はこの男に翻弄されてばかりだ。 「朝食は?」 「ま、だ」 「そうか。じゃあ一緒に行こう。そろそろ混み始めるぞ」  なんでもないように山姥切は言葉を重ねる。滲ませていた思慕の色などすっかりしまって、建物に戻る道を歩き出す。  その憎らしいほど普段通りの真っ直ぐな背を睨み付けながら、審神者は彼の後を追った。  きっと、この後執務室に戻っても、この先花瓶の切り花が見頃を終えても、この花畑の花が咲く限り、今日のことを思い返すのだろう。そうしてまた来年を、願ってしまうに、違いないのだ。

初出:2022年9月5日 旧Twitter #9月5日は刀帳95番の山姥切国広の日
加筆:2024年9月5日

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