白布にかかる影藤の
歌仙兼定は洗濯物を干し終えて本丸の庭を歩いていた。空はからりと晴れ、時折そよ風が木の葉を揺らす。夏も近付く八十八夜、立夏を前にして日差しはますます張り切っている。この分では気温も上がって洗濯物も早く乾くだろう。堀川が喜びそうだ、と歌仙は笑みをこぼした。
躑躅 、石楠花 、陰には紫蘭 、水辺に咲くのは燕子花 、牡丹 、芍薬 はこれからか。綻び始めの蕾はまるまると膨らみ、じきに迎える初夏への期待をいっぱいに詰め込んでいるようにも思われる。
若い緑と咲き乱れる花々の艶やかさを楽しみながら歩みを進めていると、視線の先に紫の霞が現れた。その下に白く見えるのは、
「山姥切?」
「……歌仙か」
藤棚に花房が連なるのを見上げていた山姥切国広は、布を深く被り直しながら振り向いた。肩の力を抜いているように見えたのに、誰かが側に寄ればすぐにこうして襤褸 の下に隠れてしまう。寂しさとも落胆ともつかない気持ちを顔に出さないよう気遣うのが、もはや歌仙の習慣になっている。
「邪魔をしたかな」
「いや」
「藤の花か。美しいね。この奥ゆかしい佇まいといい、上品な香りといい、実に雅だ」
「……写しの俺なんぞには解らんが、あんたがそう言うのなら、そうなんだろうな」
歌仙兼定は文系だ。文系であり武士である。和歌も茶道も目利きも得意だ、その自負もある。だがこうして張り合いのない答えを返されてしまっては物寂しい。独り相撲では物足りない。
「先にこの藤を見ていたのは君だろう? 何か思うことがあったのではないかい」
「大したことは考えていないぞ」
「構わないさ。美しいと感じることだって、大層なことではないだろう?」
そもそも、だ。写しだなんだと常日頃から卑屈で後ろ向きで襤褸布を被っている彼だが、偽物じゃない、国広の第一の傑作なんだ、と語気を強める彼の内側には、矜持も気骨も揃って一本芯が通っている。そのはずだ、と歌仙兼定は見込んでいる。
物を思う心も、物を考える頭も、山姥切国広はきちんと持っているはずだ。
そうか? と山姥切は首を傾げ、期待の籠もった歌仙の眼差しから逃れるように、再び藤を振り仰いだ。
「……そう、だな……。……歌仙、あんたや、蜂須賀や、長谷部がこういう色を持っていた、とか、主が、……出陣から帰還してこの花を渡す度に、嬉しそうに、していた、と……」
気恥ずかしくなったのか、言葉尻は細り、表情は布に覆われたが、歌仙は十分に満足した。
第一部隊の隊長を任される彼が、存外周りをよく見て心に留め置いているらしいということがわかったのも喜ばしい。
「ふふ、いいね、風流だ。美しいものを見て誰かを思い浮かべる、誰かとその気持ちを共有したいと思う、そういう心が古くより人に歌を詠ませたのだろうからね」
ほら僕の思った通りだ。歌仙は笑った。彼はきちんと雅を解する心を持っている。それがまだ小さな種で、屈折した心の片隅で影に隠れているとしても。
「そういう、ものか……」
「ああ。
山姥切、僕らが打たれるよりさらに四、五百年前の人に、西行という僧侶がいてね。その人がこういう歌を詠んでいる」
心なき 身にもあはれは しられけり 鴫 立つ澤の 秋の夕ぐれ
写しの自分には解らないと言いながら、目に映った物を心に落として、誰かを思っている。
そんな山姥切国広を前に、歌仙が思い出したのがこの歌だった。
「出家をして僧になるということは、この世への執着、家族や親しい人への思い、風流を解する心、すべてを置いて仏の道を進むということだ。あるいは彼自身、風流を解するほどの心が己にあるとは思っていなかったんだろう。そうであっても、この西行という人は、自然の景趣に心を動かさずにはいられなかったんだね。
君は『写しには解らない』と言ったけれど、この藤を見て思うことがあった、それは間違いなく君がその身に得た、雅を解する心だ。少なくとも僕はそう思うよ」
素晴らしいことじゃないか、歌仙が笑いかけると、山姥切はあぐあぐと口を開け閉めして見るからにうろたえた。実のところ彼は、写しに何を期待している、と返そうとしたのだが、そう口にしてしまえば歌仙の言葉を、しかもおそらくは純然たる厚意を、真っ向から否定することになる。山姥切は結局、うんともすんとも言えず、布を握り締めるしかなくなった。
口下手な彼の葛藤が、見ている相手に正しく伝わることは無論少ない。歌仙もまた、困らせたかなと眉を下げた。
無言になった二人の間に、風がそよぐ。藤の花房が揺れる。その度に光の差し込む方が変わってちらちらと瞬きを残した。おや、と歌仙は目を細めた。
「山姥切、君の布、案外に雅かもしれないね。君自身からは見えづらいかな。藤の影が布に掛かって織りの地紋のようだよ」
きょとん、と瞬いた山姥切の顔を見て、歌仙は笑った。困惑してはいるようだが、嫌悪感があるわけでもないようだ。ならば良い。歌にしろ何にしろ、一朝一夕で理解し上達できるものでなし。歌仙とて、人の身を得たのだからと人真似をして風流を楽しんでいるが、人の心は未だ持て余すこととて多い。少しずつで良い。
「ねえ山姥切、またこうして話しかけても構わないかい?」
「俺は写しだ。気の回る話し相手なら他にもいるだろう」
「それはそうだけれどね、君の目はなかなかよく物を見ていると思うよ。どうだい、今度茶でも一緒に。茶菓子も用意するし、ああ、君ならそれより軽食を取りながらの方が良いのかな」
「……いただこう」
「はは! 君は本当によく食べるね」
「飯は美味い。歌仙のなら尚更だ」
「それはそれは。恐悦至極」
歌仙は笑った。山姥切は確かに卑屈で口下手かもしれないが、その奥にあるだろう雅を解する心がこの先芽吹いて育つのなら、それを眺めるのも面白そうだ。同じ本丸に顕現した仲間だ、語り合うのも、また楽しからずや。
どうも上機嫌らしい歌仙を見て、怪訝そうに眉根を寄せた山姥切だったが、一つ息をつくと、ぼそり、呟いた。
「あんたのためになったんならいいけどな」
初出:初出日不明 旧Twitter
加筆:2025年2月22日