花と刃文と言の葉と

 春の盛りの、光をたっぷり含んだ真白い日差しが地面を温めている。  障子を開け放した執務室にも、陽光は燦然と降ってきていた。  戸口越しに見える前栽は今、桜の盛りでもある。  薄紅の花が爛漫と咲き誇る、春の最も華やかに美しい頃おい。  その景色を前に、この本丸の主は一振りの刀を掲げ持っていた。  反り深く弓形に弧を描く刀身。身幅は広く鋒は大きく、堂々たる体配。  女性にょしょうの審神者が持つと一層その勇壮さが目立つようだった。  鞘もはばきも取り払った刀身、そのなかごを小さな手にしっかと握り、もう片手の柔らかな綿布ネルに僅かに重みを預けている。  時計の針が数秒を数えるほどの角度を、それよりずっと長い時間を掛けて手首の返しで調節しながら、刀身に光を転がしていく。  面布の下で息を殺し、じっと視線を投げかける目は瞬きの数を極端に減らしている。  時に少しく顔を寄せ、あるいは腕を軽く伸ばして眺め渡し。鋒を遠ざけて鎬が作る稜線に目を凝らしたかと思えば、茎を立てて反りの重心を探り当てる。  僅かに傾けた顔の向き、少しばかりの手の上げ下げに、微妙な手首の返し。その場に静かに座していながら手先をあれこれと動かし、ありとあらゆる向きから矯めつ眇めつ一心に眼差しを注いで、彼女はその一振りをそれは熱心に鑑賞していた。  やがて姿勢を直し、はじめと同じように体の前に刀身を落ち着かせて、審神者はゆったりと瞼を閉じた。目礼。  ネル布を置き、刀身を立てて片手で持つと、脇へ寄せていた刀装具をもう片手に取っていく。  はばき、切羽、つば、切羽、……。丁寧に、しかししっかりと柄に茎を収めて、柄頭つかがしらを下から軽く叩き、緩みが無いのを確認して目釘を差し入れる。  ほのかに青みを帯びた蝋色漆塗の質朴な鞘を左手に、静かに刀身を収めていく。  とん、とはばきまできちんと鞘に収まって、審神者は小さく息を吐いた。  今ひと度目前に掲げ、礼をする。 「ありがとう、国広」 「満足したか」 「とても。ありがとう」  つい先程まで熱心に見つめていた刀を持ち主に返し、ふわりと審神者は笑みを溢した。  その吐息で面布が揺れて、その存在を思い出した彼女は後頭部の結び目に手を伸ばす。  呼気とそこに含まれる湿気を遮るために懐紙を咥えるのが古いしきたりだが、それでも熱が入るうちに息を掛けてしまいそうな気がして、美術鑑賞として刀身を借りる際には面布を用いるのが彼女の常だった。  紐を解いて息を吐く。詰めていた息を吐き切る溜め息のようでもあり、感嘆の溜め息のようでもあった。  瞼を閉じて彼女の脳裏にまざまざと思い出されるのは、彼の刀の華やかな刃文だった。 「本当に、綺麗な刀……」  鞘に下げ緒を結び直していた山姥切国広の肩が僅かに跳ねた。一拍の静止を挟んで再び指を動かし始めた彼の姿など、審神者は少しも気付いていない。 「この前一度手入れをしたでしょう、その時に気付いたの。国広の刀身に桜を重ねたらどんなに綺麗だろうって」  いかにもうっとりとした声音で呟く彼女の口許には笑みが浮かんでいる。覆い隠すものは既に無く、下げ緒を結び終えた近侍はその笑み零れる横顔をつぶさに見ることができた。  審神者が目を上げる。視界に飛び込むのは咲き誇る桜。  左手を握って胸の辺りまで持ち上げ、掬うように手のひらを上向けた右手を、左手の側から右へと動かす。滑らせるように。  飽きもせず眺めた刀の差表さしおもてを思い描いて。 「桜だと思ったの。満開の桜。白く匂の立ち込めるのたれの刃文は花霞みたいだし、光を受けた途端にきらきら輝くあしようや飛び焼きは舞い踊る桜の花びら。春の眩しい光を受ける刃そのものが、尽きることのない火花のような煌めきに満ちて見えて……」  ほぅ、と吐息を零す彼女の表情は恍惚とさえしていた。 「本当に、なんて美しい刀……」  余韻に浸っていた審神者が、ややあってくすくすと笑いながら、傍に控えていた近侍を振り返った。楽しそうな表情にはもう夢見心地の色は無い。 「ね、堀川國廣の傑作さん?」 「楽しそうで何よりだ」  茶目っ気を含んだ呼び掛けに、彼は苦笑を漏らした。  彼に向けられているきらきらした瞳に載るのは、春の光ではなく彼の依代たる刀への純粋な称賛だ。それがひどく面映い。 「刀剣男士は皆桜を纏うでしょう。私たちが誉の桜と呼んでいるもの。でも国広は、刀そのものにも桜を抱いているのね」 「あんたにはそう見えたか」 「うん。すごく綺麗だった。それからね、反りの高さも、身幅の広さも、鋒も、大きさも、全部、すごく堂々として見えるでしょう。勇ましいなって。それがすごくね、国広らしいなと思うのよ」  言い募る審神者の様子はとても無邪気だ。  山姥切国広には、刀工國廣の第一の傑作であるという自負がある。だがそのことを、我が身の刀身を、こうまで観察して言葉にしたことなどあるはずもない。  迫り上がる羞恥をなんとか押し殺しながら、目映いばかりの賛辞をせき止めないように黙って受け取るのが今彼にできる全てだった。 「国広の軽やかさはこの重ねの薄さから来ているのかしらね」 「どうだろうな」 「ねぇ国広」 「なんだ」 「抱き締めていい?」 「は???」  熱の籠もった感想の羅列から唐突に飛び出た要望に山姥切は咄嗟に後退った。  驚愕の目で見返せば、審神者はへらりと笑って首を振った。 「やっぱりだめかぁ。ごめん、気にしないで」 「あんたな」 「なんだかすごく好きだなー、って思って」 「あんたなぁ……」  深々と息を吐いて跳ねた鼓動を宥めつつ、山姥切は考えた。  先程から花吹雪のように浴びせられる賛辞も称賛の眼差しももうこれ以上真っ向から受け止めるのは正直つらい。嬉しさと恥ずかしさで布があったら隠れたいほどなのだ。かといって、別に、抱擁が嫌なわけでは、ない。なんなら申し出自体は嬉しい。いつも、気遣い故に距離を置くのがこの主だから。勢いで出たのだろうが、好き、だという、言葉まで寄越されて、嬉しくないわけがない。  ならば答えは一つだ。最初から一つだ。  ……あぁ、だが。 「……俺は構わないが。ここは執務室だぞ。いいのか?」 「う……、とても良くないですすみません……」  開け放した障子を指し示して問えば、審神者はしおしおと勢いを失った。  日頃きちんとした審神者なのだ。仕事もてきぱきと進めるしその背筋は真っ直ぐ伸びて、それが弛むのは執務を終えて部屋を出たとき、さらに言えば他の刀剣男士の目が無いときにやっと気の抜けた姿を見せるのだ。  そんな風に公私を分ける彼女が、執務室で近侍に抱き着く姿を見せるのは……、彼女自身が後で許せないだろうと、そう思っての指摘だった。  結局彼女の勢いを自分の手で止めてしまったなと思う。もっとその称賛を聞いていたい気持ちもあったのに。 「そうか、残念だ」  山姥切の言葉に審神者は目を見開いて、ふいと顔を逸らした。耳に朱が上っている。山姥切の口から笑いが溢れた。  にじり寄って一尺ばかり距離を詰め、審神者の手を掬い取った。  驚いたように顔を向けてくるのを流して小さな手に目を落とす。先ほどまで刀身を預けていた手のひら。  あたたかい。差し込む春の日差しも、彼女の手も、その心と言葉も。 「あんたに褒められる度にな、俺は本当にその賛美に値するのか、と思い返すんだ」 「国広」  抗議の色を帯びた声に、親指で手の甲を撫でて返す。わかっている。 「刀の肌や刃文なんて、言ってしまえば偶然出来た模様でしかないんだ。それをあんたが今してくれたみたいに、美しいと思って美しいと言葉にしてくれるから、美しいものとしてそこに在れる」  話し出すと、審神者は大人しく聞く態勢を取った。いつもの、真っ直ぐに話を受け止めてくれる彼女の姿勢。  その姿勢通りの直ぐな視線が向けられているのを感じる。山姥切は彼女の手に落としていた目を上げた。ほら、思った通りに。 「あんたが俺の刀に俺の姿を重ねてなお美しいと言ってくれるのなら、俺はその称賛に値する俺で在りたい。  あんたの為に俺は在る。あんたの優しさに甘えて気を抜いてはいないかと、胡座をかいてはいないかと、あんたに褒められる度に背筋を正すんだ」  真摯な眼差しが時折僅かに揺れる。彼女はそれを瞬きに隠すが、見えない心の内に何を思っているのだろうか。  気になりながらも言葉を探し続ける。この感謝を、称賛を、伝えられる機を逃さないように。 「だから、あんたが俺を、俺の在り様までも、美しいと言ってくれるのなら、それはあんたのおかげなんだ。あんたが俺を磨いてくれる」  昔からそうだった。  比較され、優劣を論じられ、またじろじろと眺め回されて。刀の記憶は人の身に継がれ、他人の視線を疎んじた。矜持と卑屈とで拗れたこの心に、彼女が純粋な称賛をくれた。その称賛に応えたいといつしか思うようになっていた。 「あんたの心、言葉が、俺の迷いを払ってくれる。  さながら心が砥石で言葉が打ち粉か? ……ふ、すまない、花のない喩えだな。  あんたこそ、美しい言葉で称賛されるべきなのにな」  嗚呼。彼女が俺の刀身を桜に喩えたように。  美しい彼女の心を美しいものに喩えられたら。  俺にそれだけの言葉があれば。  きっと彼女を喜ばせることができたのに。 「あんたはすごいな。  物や、風景や……、この世にあるものを見て、美しいと感じられるあんたの心も、それを言葉にできることも、あんたに備わった力なんだろう」  山姥切は讃嘆の息を吐いた。  彼女のようには上手く言葉を操れない。  難しい、とわかるから、一層与えられる言葉が尊い。  彼女の手を取る指先に力が籠もった。あぁ、やはり小さい。 「あんたが俺の主で良かった。あんたのくれる心が好きだ。  あんたの期待に、これからも応えないとな。  そうしてやっと、『あんたの為の傑作』だと、俺は胸を張って言えるんだ」  この手に選ばれた。この霊力に引かれて顕現した。この眼差しに受け入れられた。この声に幾度も名を呼ばれた。この言葉に認められた。  この心に、救われてきた。  この人が、愛しい。  胸の奥から滾滾と湧き出る気持ちのそのままに、山姥切は審神者の手を引いてその手のひらに頬擦りした。  ふと瞼を上げて、気付く。審神者の頬が薄紅に染まっていた。  思わず彼の唇に笑みが乗る。  静かに聞いていてくれるから思いつくまま話していたが、ああどうやら。己の言葉でも彼女を喜ばせることができるらしい。 「あんた、さっきまで人を散々褒めておいて、自分がされて照れてるのか」 「なんなら泣きそうですけれども」 「はは! そうか。本心だからな。遠慮せず受け取ってくれ」 「知ってる……。だから照れてるの、わかってるくせに」  審神者は所在無げに視線を泳がせている。小さな手を引き込める動きも見せないのは、混乱に固まっているのか、山姥切の行動を咎めるつもりが無いからか。  後者と勝手に取っても構わないだろうか。  もう少しばかり謝意を足したい。逃げないのならば、彼女は受け取ってくれるだろうか。 「……なぁ、主」 「……なに?」 「あんたに感謝や称賛を伝える言葉と声があるのも、こうしてあんたに触れられる体があるのも、有り難いことだと思ってな。……ありがとう、主」  ぱっと手が振り払われた。  残念だ、と、思ったのとどちらが早かったか。体に衝撃があった。  なんだ、結局抱き着くのか、この主は。  ぎゅ、と背中に回る手に力が込められるのを感じた。 「どういたしまして。伝えてくれてありがとう。私も国広に、あなたの行動にも言葉にも、助けられてるの、知っていてね」 「そう、か……。承知した、覚えておこう」  だいすき。一等あたたかで甘やかな声が耳朶を打って、山姥切は目を閉じた。  障子を開け放した執務室に、春の光が注がれている。  春。冬を越えて種が芽吹き、葉を伸ばし花開く季節。  ひとの心も、また然り。

初出:2022年3月27日
加筆:2024年4月4日

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