夜の不安に彼を求める
「あんた、まだ起きていたのか」
日付も変わった夜半過ぎに、ぼんやり離れから中庭を眺めていたら、不意に声を掛けられた。
「あら、見つかっちゃった」
「見つかっちゃったじゃない。明日は政府のお偉方と会議だ面談だと言っていただろう」
彼こそどうしてこんなところに、と思わないではないけれど。
見る間に距離を詰めてきた近侍様に両手を挙げて無抵抗のポーズ。
「眠れなくて」
「またか」
素直に告げればため息混じりの反応が返ってくる。
「あんたのそれは眠れないんじゃなくて眠ろうとしないんだろう。そら、部屋に戻れ。体を冷やすな、風邪を引く」
本丸立ち上げの時から酸いも甘いも同じ釜で食べてきた初期刀様である。私の些細な抵抗などお見通しで取り合ってもくれない。
とはいえ、いい加減足先も冷たくなってきていたから、大人しく障子を開けて自室に引き下がる。
振り返って見上げた仏頂面は、呆れているのかと思えばそうでもない。読み取りにくい無表情に、ひとまず軽蔑の色が無さそうなのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
「なにか温かいものを持ってくる。布団に入って待っていろ」
テキパキと指示を出してくる姿にも、貫禄とでも言うべき手際の良さ、慣れが見て取れた。あんなに卑屈だったのに、こんなに立派になって……。主がこんなだからか。
「……主?」
ぼんやり考えていると、怪訝そうな顔で見下ろされた。その理由が思い当たらず首を傾げて返せば、手、と一言。
「……無意識か? あんた自分の手を見てみろ」
言われるがまま、目線を落とす。
びっくりして手を離した。彼の羽織の袖、浴衣一枚では冷えるからとついでに誂えたそれ、を引いていた。無意識とは我ながら恐ろしい。夜更かしの態になった頭ではどうにも理性が休みがちだ。
「……それで?」
それで?
ろくに回っていない頭では意味を掴みきれずに瞬くしかできなかった。ため息。
「あんた、俺に何をしてほしい」
何を。それきり黙ったところを見るに、言えば叶えてくれるらしい。
「じゃあ。……だきしめて。ぎゅうって」
言って、嫌がるかな、と思った。色を混ぜた触れ合いがしたいわけではない。ただ安心感が欲しかった。
「嫌なら――」
「そら、これでいいだろう」
ふわり、自分でない体温が触れた。微かな香の匂い。箪笥用に男士達に渡している防虫も兼ねた匂い袋の香だ。背中にぎゅっと力が触れて、ほうと息が零れた。彼の体温がぬくい。
「他には?」
普段と変わらない淡々とした低い声音だ。
他。ほかに。すぐには思い付かなくて、それでも離れがたくて彼の後身頃をつかまえた。
私が考えるだけ、沈黙が積もる。静かだった。冬と春のあわい、空気は春の匂いを含んでしっとりとしている。今夜は風も眠っているようだった。
「……私は、あなたの信頼に足る主でいられている?」
「ああ。答えるまでもないな」
言ってしまった、と後悔するより先に肯定が返ってきた。
力強い声だった。私の、ひとりごとにも等しいほどの弱々とした声を、零さず拾って、幾重にも包んで返してくれた。
その忠心は本物だ。嬉しくないわけがない。
けれど、だからこそ、それを否定したくなるのは、……訊かれたから答えるのだと、情緒不安定な主を落ち着かせるために言うのだと、馬鹿正直に否定するやつなどいないと、ひねくれいじけるのは……、自分自身だ。
ありがとうとも返せずに、ただ俯くしかなかった。
「……だが。人に言われて自信がつくならいちいち不安にもならないな」
俯いた耳許に、存外に柔らかい声が落ちてきて肩が跳ねた。
「俺は、あんたのための傑作、そうだろう?
俺を選び主従の契約を結んだのはあんたかもしれないが、あんたを主と認めたのは俺だ。あんただから強くなろうと思った。修行に行ったのもあんたのために強くありたいと思ったからだ。俺はあんたのための傑作として、あんたの下に帰ってきた。
それを、忘れてくれるなよ」
いっそう回された手が強くなって。揺らがぬ意志で告げられた言葉が、真っ直ぐ、深く。鳩尾に突き刺さるようだった。
私は主として、このかたなに信を置かれている。
思われている。
畳み掛けられた誠実な物言いを、嘘だおべっかだと断ずることは私にはもうできなかった。彼がそういった愛想と無縁なのはわかりきっていることだし、彼はこの本丸で私が一等信頼するかたなだ。彼が信じるものを、私も信じる。
「……ありがとう、国広」
最後にぎゅ、と抱き締めれば、どちらともなく腕は解かれた。離れる体温は寂しいけれど、駄々を捏ねるほどの空しさはもう無い。彼が満たしてくれた胸の内が温かいから。
「気が済んだならもう寝ろ。寝るまでは控えていてやるから」
促されるまま布団に潜れば、ふにゃりと体の強ばりがとけた。一人で横になったときは寝ようとも思えなくて端末を片手に無為な時間を過ごしていたのに。
頭の収まりの良い場所を探し当てて、ふ、と深く息を吐く。力が抜けてまぶたが落ちた。
「おやすみ」
やわらかな低い音を追うように、頭にやさしい重みが載った。ぬくもりがそっと髪を梳く。
そのあとのことは、覚えていない。
俺は俺だ、と言う度嬉しそうにしたのは、他でもないあんただろう。
同じことを、どうしてあんたは自分にしてやらないんだろうな。
初出:2020年3月14日 pixiv
加筆:2024年1月28日