雨雫をぬぐう
手の止まる回数がいつもより多いだろうか、と山姥切国広が気付いたのは四半刻 ほど前だった。
いつものように机に向かい事務仕事をこなす審神者を横目に窺う。椅子に腰掛ける背筋の曲線、画面を見る横顔の瞬きの数、時折挟まれる溜め息未満の深い吐息。
少なくとも、調子の良い日の姿ではなかった。どうも集中しきれていないらしい、と山姥切は結論付けた。
「主」
「ん、何?」
あぁ、返事も早い。集中して目の前のことに没頭しているときなど一拍二拍反応が遅れることとて珍しくないのがこの審神者なのに。
「休憩にしよう。今日調子悪い日だな」
一寸目を見開いた審神者が、決まり悪そうに眉をひそめた。
「う……、でもこれやらないと」
「いいから。庭でも見に行こう。雨の散歩、好きだろう」
畳み掛ければ、審神者は執務室の入り口、その先の前栽に目を遣り、机に向き直り、暫し黙り込んだ。壁に投写した画面を睨み付けて、十数秒。結局彼女は溜め息を吐いて画面を払った。
「少しだけね」
「渋ったな。それ期限今日か?」
「んー、今日終わらせる予定になってる」
「あぁ、なるほど。急ぎじゃないんだな」
「終わらせたい」
「わかった。……羽織りは?」
「要らない、と思う」
山姥切は頷いて、戸棚から自分の布を引っ張り出した。慣れたものだな、とぼんやり思う。審神者は物事を前倒しで進めるのが好きだし、自分が立てた予定を自分で狂わせることを嫌っている。観察していたこの四半刻、作業を止めた手を擦り合わせるような仕草が数度あった。恐らく手が冷えているが本人の自覚が無い。長年仕えているとその辺りの機微、癖にはさすがに慣れるものらしい。
未だにどこか不服そうな表情の審神者を連れて、執務室を出る。朝から雨が降り続いていた。気紛れに少しく雨脚を強めては、またしとしとぱらぱらと静かに音を立てている。
渡り廊下から庭に降りる。支えに使えと差し出した手に触れた指がやはりいささか冷えていた。
梅雨時の庭で青々と茂る葉が一段と艶めいている。
濡れた地面、石畳。
いまひとつ表情の晴れない審神者がなんとなしに危なっかしく、触れた指は捕 まえたままにしておく。一度だけ抗うように引かれたが、知らぬ振りをすれば二度目は無かった。
会話は無い。降りしきる雨、傘を打つ雫。からころと鳴る下駄の音。ひんやりした湿気。雨の空気が隙間を満たしていた。
ゆるゆると歩を進めた先、東屋の前で足を止める。山姥切を見上げる審神者の顔に、僅かに抗議の色が浮かぶ。少しだけだと言ったはずだ、の意。山姥切は軽く手を引いて促した。溜め息。
傘を畳んで屋根をくぐるのを待ち、己の傘を閉じる。
腰を下ろした審神者が、また小さく溜め息を吐いた。その隣に座る。
「……ごめん」
力無い声だった。口の中だけで音を転がしているような。顔を向けても、審神者は円 窓の外にぼんやりと目を投げたままだ。
「謝られるような心当たりは無いがな」
「気を遣わせたから」
声に微かに苛立ちが混ざる。この審神者は疲れや弱音をなかなか見せようとしないのが常だったが、だからといって隠すのが上手いでもないと山姥切は思う。
「謝ることじゃない」
「……」
話し始める前の、息を吸う音。しかし音は続かなかった。溜め息のような呼気に変わって零れ、消える。
「調子悪い日だな。隠そうとしなくていいし、無理に頑張らなくていい。どうせあんたのことだからちょっとずれたくらいで切羽詰まるような予定は組んでないだろう」
無言のまま、審神者は首を横に振った。溜め息。彼女の心も梅雨曇にあるらしい。
山姥切は畳んで持ってきていた布を差し出して見せた。朝からの雨で気温はあまり上がっていない。審神者は、少し迷うように指を泳がせて、結局それを受け取った。もぞもぞと広げて包 まり、小さく息を吐く。
「……ありがとう」
頷いて返し、山姥切は彼女の背中に腕を回して肩を抱いた。少しの抵抗。いいから、と促すためにぽんぽんと軽く叩いてやる。ふた呼吸分の間の後に、審神者はやっと重みを預けてきた。素直じゃない。意地を張る。
その体から、呼吸から、力みが抜けたのを確認して山姥切は手を移した。頭に乗せて、髪を撫でる。審神者はされるがままになっていた。
「……ごめんね」
ややあって、審神者が口を開いた。髪を撫でる手は止めないまま、何がだ、と山姥切は問いを返した。
「世話を焼かせるために近侍を置いてるわけじゃないのに」
山姥切は悟られないように努めつつ苦笑いを零した。生真面目な彼の主はいささか自分に厳しく、自罰的だ。ふとした拍子に覗く甘えたな一面も、きっと彼女の素の部分なのに、どうにもそれを嫌っている節がある。
「ごめんって言いながらこうやって優しさに甘んじてるのも、んん、ごめん愚痴だ」
繰り返す溜め息。じめついた言葉が零れてくるのも、内心が雨降りだからだろう。
山姥切は吐息を漏らした。口端にほんのりと笑みが載る。
「案ずるな。終生の守り刀が主の弱音の一つ二つ受け止められなくてどうする」
審神者が息を呑む。次いで零された溜め息は、笑みの色を含んでいた。
「敵わないなぁ……ありがと」
声色に柔らかさが戻っている。山姥切は彼女のつむじに頬を寄せた。
しとしと、ぱらぱら。会話の途切れた静寂を静かな雨音が埋めている。
飽きずに髪を撫でながら、山姥切は審神者の呼吸を数えていく。落ち着いた呼吸がゆったりと繰り返されている。寄り掛かる体の重み、体温。
「あと五分したらもどる」
不意に口を開いた審神者が端的に告げた。
「わかった」
「じゃないと寝そう……頭撫でられるの気持ちいい」
「やめるか?」
「やだ」
間髪入れない答えに思わず笑う。審神者もくすくすと楽しげに笑みを零している。最初から、そうして素直に甘えていいのに。
審神者が首の角度を少し直す。外の景色が見たいらしい。山姥切も目を上げた。
降りしきる糸雨。枝葉の間を雨滴が跳ねては転がり落ちる。窓を覆う一面の翠緑。しな垂れる青紅葉、白い花弁を覗かせる夏椿、彩り鮮やかな紫陽花に、随分と気の早い百日紅 が二三輪ばかり枝先に紅色を見せている。
見るともなしに打ち眺め、やがて山姥切は視線を落とした。
審神者の細い手首の上、時計を見遣って目を閉じる。もう少し。梅雨寒の雨の空気に明け渡すには惜しい温もりが、彼の片腕に収まっている。
初出:2022年6月21日
加筆:2025年2月22日