信じる。たったひとつ、それだけのこと。

 両腕を突き上げ、ぐぐ、と体を伸ばす。ふぅと息を吐いた審神者は、椅子を回して傍に控える近侍に向き直った。 「お疲れ様でした。今日もありがとう」 「あんたもご苦労だったな」  今日も無事に月初の面談を終えた。ちらとカレンダーに目をやって、審神者は口を開いた。 「さっき気付いたんだけど……、今日はあなたが帰ってきた日ね」  その言葉に、山姥切国広ははたりと目を瞬かせた。 「ん? ……ん、あぁ、修行か。あんた、そんなことまで覚えてるのか」  驚嘆を含んだ声に、審神者はそっと微笑んだ。 「……もう、極めてからの方が長くなったのね」 「そうか……そうだな」 「修行に行く前のあなたがどんな風だったか、思い出せなくなってきちゃった。旅立ちを見送ったときのことは、覚えてるんだけど」 「人には短くない時間が経ったからな。……それに、あんたが腰を据えたのもあの頃だろう」 「あぁ。そっか、それもあるか」  この審神者がこの本丸を本格的に運用し始めたのは、彼女が高等教育を修めてからのことだ。講義を受けるのも論文を書くのも一通り落ち着いた、その冬の終わりに、この本丸の山姥切国広は修行の旅に出た。 「俺の思うように強くなって帰ってこいと、あんたはそう言ったな」 「うん。政府から各本丸に修行の許可が下りてからそれなりに経ってたし、どういうものかは知ってたから……。私の山姥切国広は、何を見て、何を思って、何を選んで帰ってくるんだろう、って思ってた。  私にとってはその時すでに、あなたは強くて、一番武功をあげていて、誰より頼もしいかたなだったから。その先を求めるあなたが、何を強さとして選択するのかなって、楽しみだったの」  審神者は自分に向けられている碧い瞳を覗き込んだ。その晴れた碧を通して、かつての彼を思った。薄汚れた襤褸布、長く無造作に下ろされた前髪、けれどその奥に覗く瞳は、いつだって強い意志をたたえていた。真面目で、全うで、真っ直ぐで、誠実な、信頼できるかたなだった。  今も変わらない。昔から、ずっと。その碧が好ましかった。 「っ……、光栄だ」  嫌みの無い、純粋な称賛に胸の内を掻き乱されながら、山姥切はなんとか言葉を返した。この審神者は、本当に、褒めること、好意を伝えることに、躊躇が無い。 「……そこまで期待をかけられていたとは思わなかった。俺は、むしろあんたが何を考えているのかわからなかったんだがな」 「え」 「あんたは俺に『れ』と言わなかっただろう。俺のような写しの刀に何を望んでいるのか、わからなかったんだ。……どうなっても、どうでも良いのかとすら」 「そ、れは……、だって、比較されるのをことさら嫌がって、『俺は俺だ』って矜持があるひとに、そんなこと言えないよ」  山姥切は笑った。 「あぁ、知っているさ。あんたはそういう奴だよな。今ならわかる。あの頃は、あんたを信じるには俺に自信が足りなかったんだ」  どうしてなのかと不思議なほどだ。こんなにひたむきに信頼を寄せてくれる人のことを、ずっと信じ切れずにいた。 「俺が居ない間に他の奴を取り立てるんだろうとさえ思っていたな。それが写しの俺には当然だと」 「そんなこと……」  山姥切の声が苦みを帯びる。過去を覗いて俯く顔に、被さる前髪。以前の彼を思わせるその仕草を見て、審神者はおもむろに口を開いた。 「山姥切国広を、修行に送り出すことで」  あの頃、何を思っていたのだったか。 「あなたが選ぶものを、知りたかった。誇りあるあなたの心が何を選ぶのか。……まさかそれで私のためと迷いなく言い切るようになるなんて、さすがに思ってなかったけど……。  あなたが悩むものをどう飲み込んで帰ってくるのかなとも思ってた。決着をつけても、悩み続けても、それがあなたの選択なら、私はそれを支持したかった。あなたの心が選ぶあなたを見てみたかった。だから、『あなたの思うように強く』、って」 「そうか……」  時が過ぎて打ち明けられる、審神者の心。そこから伝わるのも、やはり柔らかな信頼だった。丁寧に重ねられる言の葉には押し付けがましさが少しもない。  山姥切はややあって気付いた。押し付けてこない、その見守るような姿勢が為に、彼は彼女の信頼を受け取り損ねたのだ。  山姥切が修行に出る前というのはつまり、審神者もまだ学生の身分を兼ねていた頃で、本丸運営に掛かり切りになるわけにもいかず、交わす言葉も決して今ほど多くはなかった。そしてあの隠しもしない称賛と好意も、今より遥かに控えめだった。  当然のことだ。伝える言葉を頑なに信じてもらえないのなら、どうしてそれを届け続けていられるだろう。山姥切が、自他を信じようとしないその態度が、彼女の言葉を封じたのだ。  山姥切は胸中に自嘲した。あの頃の迷いを、否定はしない。だが、一言苦言は呈したかった。お前は何を見ていたんだ、その近侍の座にあって。 「あれも修行の前だったか。悩んだ過去も俺を形作る歴史の一つだと、言ってくれたことがあるだろう。それだけじゃない、あんたはいつだって俺を受け入れてくれた。写しがどうとか『山姥切』がどうとか一切関係無く、ただ俺を見てくれた。それに気付くのにずいぶん掛かったが……。  あんたがそうやって信じて送り出してくれたから、俺はあの修行でじっくり考えることができたんだろう。俺が、俺自身に向き合えたんだ」 「……強く、なったよ。本当に。強くなったね」  しみじみと感慨深げに審神者は笑んだ。晴れ渡る空を仰ぎ見るように。陽光の明るさに目を細めるように。 「帰ってきてくれて、ありがとう」 「あぁ。あんたのために、今はここに在る」  朗朗たる声音、曇りない強い眼差し。ああ、やっぱり。真正面から胸を打たれて、審神者は寸の間息を詰まらせた。  やっぱり、彼は私の夜明け。闇を越えた先の光。冴え渡る、冬の夜明けの金色の。その一条の光を、どうしてこんなにも真っ直ぐに、私に投げかけてくれるのだろう。 「どうして?」 「ん?」 「どうして、そこまで、私のためって言い切ってくれるの?」  いつも、不思議に思ってはいた。『主のための傑作』と言い切る声はきっぱりと強く、そう告げられる度、審神者の胸に湧き起こるのは喜びと、困惑にも似た驚きだった。何が彼にそう言わしめるのだろう。  審神者の問いかけに、山姥切は驚いたように瞬いた。まるで問われたことそれ自体が意外だとでも言うように。  ふっと山姥切が考える顔つきになり、審神者は静かに答えを待った。思案する瞳が斜めに流れ、まぶたと長いまつ毛に隠され、やがて審神者の元にかえってきた。 「信じてくれたから、だな」 「……それだけ?」 「突き詰めればな」  信じる。たったひとつ、それだけのことで。有言実行そのものの献身と忠誠が彼女に向けられるのだと、彼は言う。 「でも、それは」  どうしてか必死な気持ちになって彼女は言い返した。 「それは、山姥切自身の功績だよ。だって、何度も言ってるでしょう、あなたの働きが真面目だったから、実力を見せてくれたから、そういうあなたを好ましいと思えたから、私はあなたを信じられた。あなたが勝ち得た信頼なのに」  そう、すべて、山姥切国広は初めから全てをその身の内に持っていた。矜持も、実力も、答えも。審神者が与えたものではない。彼女は彼が持つそのすべてに美しいと見惚れただけだ。  戸惑った様子の審神者の表情に、山姥切は目許をゆるめた。 「この話になるといつも堂々巡りだな。言っただろ、あんたが俺を選んで、信じて、使ってくれた。あんたに使われることは誉れなんだ。それが自信になって、俺は俺を信じられた。俺をここに導いてくれたのはあんたで、だから俺はあんたのための傑作なんだ。  あんたが俺を信じてくれなかったら、俺はいつまでも写しであることにばかり拘って、卑屈になっていただろう。ああだこうだ言ってくるのは、結局周りじゃなくて俺自身だったんだからな」  この審神者は、いつもそうだ。いっそ崇めるような慇懃さで以て、彼女は山姥切を賛美する。だがその心尽くしの賛辞が彼女自身に向けられることはない。自己評価が低いと山姥切は思うのだ。もどかしさを胸懐に燻らせながら、彼は幾度も繰り返す。  名刀のたかが写しの刀を、しかし國廣という刀工の第一の傑作であるのだと信じてくれた。初めの一振りとして選び、信頼を寄せ、重用してくれた。卑屈な態度に匙を投げることなく、ここまで導き磨いてくれた。斬れ味を鈍らせぬよう、手を懸け続けてくれた。そのたった一人の彼の主のための刀、それがこの山姥切国広なのだ、と。  あの頃素直に返せなかった信頼を。彼女のように言葉を操るのは上手くはないから、ただ一言、『主のため』と。あとは行動で示せばいい。  返す言葉を探しているのだろうか。伏し目がちに何か考えているらしい審神者に呼びかけた。 「なぁ主、俺はあんたが他に見せて恥じない働きができているか」 「それはもちろん」  はっきりとした即答に胸の内が歓喜でざわめく。だが今は。 「なら、俺を選んだあんたの目利きを誇ると良い」  あんたが褒め称える俺の、その主はあんたなんだぞ。今一度だけ念を押す。  山姥切のその言葉に、審神者は目を見開いた。二、三、忙しなく目を瞬かせると、彼女は小さく頷いた。 「ん、わかった」  和らいだ目許に笑みが浮かぶ。 「ありがとう」  柔らかな微笑みに、気恥ずかしさと嬉しげな色が載っている。山姥切は安堵した。最近では彼女も、こうした山姥切からの称揚の言葉をむやみに否定することがなくなってきていた。 「あの頃……、いや、すまん、少し話し込みすぎたか」  言いさし、しばらく雑談に興じていたことに思い至って山姥切は時計に目を向けた。審神者が笑って首を振る。 「いいよ。今月は報告することも少なかったし、急ぎの仕事も無いし。コーヒー淹れよっか」  審神者が立ち上がって戸棚に向かう。マグカップを二つ取り出す横で、山姥切もコーヒーメーカーにフィルターを据える。そうしながら、言いかけた言葉の続きを口にした。 「あの頃……、俺が修行から戻ってきた後、あんた距離を置いただろう」  審神者がぴたりと動きを止めた。沈黙が落ちる。山姥切は気にせずコーヒーの粉を軽量した。彼女がそんな風に黙り込んでしまうのは言葉を探しているときだともう知っているからだ。 「……ごめんなさい」  しばらくして、彼女は一言静かに告げた。  それからまた少しの沈黙。指先を迷わせながら、菓子皿を取り、クッキー缶を開ける。一枚、二枚。一種類ずつ乗せていく。もう一枚の皿にも、クッキーを一枚、二枚、……五枚。多い方の皿を山姥切に押しやって、そうしてやっと、彼女はもう一度口を開いた。 「あの頃、すごく必死だったの。審神者としてしっかりやっていかなくちゃ、って、気負っていた頃だったから……。  山姥切もそうだし、第一部隊のみんなを修行に送り出して、手紙をもらって……。不安に、なったの。こんなに、こんなに立派な主の元にあった刀剣を、素晴らしい名刀たちを、こんな平凡で非力な小娘が持っているの? って。  専業になったことで、他の本丸のやり方も勉強させてもらっていたし、そうしたら、周りの審神者さんたちがすごく立派に見えてきて。一振り一振りに平等に真摯に接して、相手のことを知ろうとしていて、誰か一振りに負担が偏ることがないような本丸の回し方を考えていて……」  こぽこぽと湯の沸く音がする。山姥切は静かに彼の主の声に耳を傾けていた。追い詰められたように滔々と喋る声を、その奥の痛みを、聞いていた。 「私だめだ、って思ったの。全然だめだ、こんなんじゃ、って」  小さく首を振った審神者が、顔を上げて山姥切を見た。山姥切も見返した。審神者の顔には、苦笑が浮かんでいた。困ったものね、と。呆れたような、気まずそうな、恥じ入るような。しかし暗い表情ではなかった。 「だって、私には山姥切国広だけが特別だったの」  彼女はすんなりとその事実を口にした。 「最初にこの一振りと心に決めたときから、ずっと。山姥切国広だけが特別だった。だからずっと近侍を任せていたし、この本丸で最初に修行に送り出した。喜んで送り出したくせに、すぐに寂しくて心細くて不安になった。そのくらい、特別だった」  僅かに声に甘さを滲ませた審神者は、そこでつと口を閉じ、目を伏せた。 「でも。でも、その特別なかたなが、山姥切国広が、修行から帰ってきて、強くなって、眩しくなってた。その誇り高く美しい刀剣男士に恥じない主で在りたいと思ったとき、特別にしちゃいけなかったんだ、って気付いたの。優秀な審神者なら、きっと一振りを贔屓したりしない」  審神者は唇を持ち上げた。隣に立つ山姥切に向き直り、にこりと綺麗に笑みを見せた。 「そう、『神様は私のために在るんじゃない。この戦を終わらせるために居られるの』」  いつの日か口にした、山姥切国広を突き放し遠ざけるための言葉。それを彼女は改めて声に載せた。  あの頃は、未熟だったのだ。刀のことも、歴史のことも、働くということも、戦いに身を置くということも、よくわかっていなかった。わからないなりに、生来の生真面目さと責任感で以て『優秀な審神者』であろうとした。完全に、空回りだった。今はそう思う。 「だから近侍も交代制にして、あなたとも『適切な距離』を取ろうとしたのよ」  はぁ、と審神者は息を吐いて、静かになっていたコーヒーメーカーからポットを取り出した。二つのマグカップに均等に、しかしなみなみと注いで、片方を渡し、自分の分に口を付けた。苦い。  しばしの沈黙。山姥切がひょいとクッキーをつまんで口に放り込み、さくさくと小気味良く音を立てている。そういえば立ちっぱなしだったなと審神者は気付いたが、コーヒーと共に飲み込んだ。どちらもそういう行儀にいささか無頓着おおらかなところがあった。 「責めるつもりで言うのではないんだがな」  コーヒーを啜った山姥切が口を開いた。ゆったりとした声音に、審神者は彼の顔を振り仰いだ。見返す面立ちも、いつも通りに表情に乏しく、穏やかで平坦だった。 「あんたのためと心に決めて帰ってきたら、あんたのあの態度で……。あれは、正直堪えたな」 「それは、本当に、ごめんなさい」  審神者が目に見えて縮こまる。山姥切は微かに目を細めて首を振った。 「謝らなくていい。俺自身が不甲斐なくて仕方なかったという話だ。あんたが自分を下げるようになって、ああ、俺がしていたことはこれかと。立場が入れ替わっただろ、歯痒かった」  山姥切が眉を下げる。この優しく誠実な初期刀を傷つけていたのだと改めて気付かされて、審神者は悔やんだ。 「あの頃ね、私、国広に、見られたくなかったの」  だから遠ざけた。審神者はぽつりと呟くように口にした。 「立派でかっこよくて、すごく眩しくなった国広に、だめな私を見られたくなかったの。あの頃、私本当に自信が無くなってて、何してもだめな気がしてて、そんな私を見てほしくなかったの。自分ですら捨てたい私が、あなたの主に相応しいとはとても思えなかった」  審神者は顔を覆った。痛々しいくらいに空回りしていた過去の自分に羞恥が沸き上がるほどだった。本当に、苦しかったのも確かではあるのだけれど。 「あなたの誠意を撥ねつけてたのよね。ごめんなさい」 「いや、お互い様、というやつだろう」 「……そうね。あなたの忠心を受け入れるには、私に自信が足りなかった」  肩を落として、審神者は苦笑を返した。山姥切の言葉をなぞる。これだから、似た者同士の主従だと言われるのだ。  一拍、じっと見つめるように目を合わせた山姥切が、ふ、と口許をゆるませた。 「今のあんたは、もう違う」  穏やかな声で断定した山姥切に、審神者は一瞬きょとんとした。やがてくすくすと笑みをこぼして、いたずらっぽい目を向けた。 「だって、諦めろ、って国広が言ったのよ」  無言の、微かな笑みが肯定の返事だった。  審神者はそっと目を伏せた。遠ざけても、それでもやはり、どうしても、この刀だけが特別だった。交代制にした近侍も、結局は山姥切国広に戻したし、自分のことが信じられないときも、この刀なら信じられた。認めたくなかったこの刀への執着を、暴き立てて引っ掴んで受け入れてしまったのが彼だった。傍にいてくれなければ立てなくなりそうなほど、この男に依存してしまった。縋り付いてしまった。それを許してしまったのは、彼であり、彼女だった。  まぶたを上げて、彼女は笑った。 「だからもう、諦めたの。  あなたが何をしたとしても、きっと私は変わらずあなたのことが大好きだろうし、私が何をしたとしても、あなたは私との約束を守り抜いてくれるんだろうなって。もう信じる信じないの話じゃなくて、そういうものなんだろうなって認めちゃったのよ。  そうしたら、それ以外はどうでも良くなっちゃった。私が国広のことが好きで、国広が私のために在るのなら、それさえ確かなら、他はもう、些細なことに思えてきちゃった」  話しているうちに可笑しくなってきて、審神者は笑い声を立てた。晴れやかな気分だった。  自分の声に甘えた色が載っているのには気付いている。昔の自分ならそれを嫌悪したかもしれない。彼からの忠誠を、彼への信頼を、恋情で汚したくはないと吐き捨てたかもしれない。けれどもう、諦めてしまった。どうしようもないくらい、彼のことが好きだった。  だから、彼女は小さな秘密を打ち明けた。 「あなただけよ。山姥切国広だけ。旅立ちと帰還の日付をいつまでも覚えてるのは」  審神者は、笑みを浮かべたまま、声を潜めた。 「ひどい審神者でしょう?」 「あんたの第一の宝刀になれて光栄だ」  碧い瞳が真っ直ぐに審神者を捉えている。嘘もおべっかも縁遠い男だ。本心だとわかるから、審神者は、それでも少しほっとしながら、笑みを深めた。  背を伸ばして顔を上げ、目の前の碧を見据える。 「私は、理想通りの完璧な審神者にはなれないわ。優秀でありたいとは今も思っているし、あなたたちに恥じない主でありたいとは思うけど、それでも完璧にはなれない。ちゃんとわかった。諦めた。  それでもあなたはこれからもずっと傍にいてくれる。そうでしょ?」 「ああ。俺はあんたの終生の守り刀として、あんたの命の最後の時まで、あんたの物語を貰い受ける。それが、あんたの願いで、俺の願いだからな」 「うん。ありがとう。……やっぱりあなたを選んでよかった」  この刀を選んだことが、彼女にとっての幸福だった。彼は、斬れ味の鋭い刀で、信頼できる刀剣男士で、祈ればそれを叶えてくれる、彼女にとっての神様だった。手放すことなどできようはずもなかった。  どうしたって消せない執着心だと、開き直ってしまえば後はなんとも楽な心地だった。自分を否定し続け、打ちのめされてぼろぼろになっても、どうにもこの刀が手放せなかったし、この男は放っておいてはくれなかった。ひどい審神者に、ひどい刀剣男士だった。それで良い。少しも構わない。それが彼女の今の答えだった。 「さて、と……。仕事戻らないとね」 「長い休憩にしてしまったな」 「ね。……ねぇ、戻る前に、もうひとつだけ」 「ん?」 「抱き締めても良い?」  山姥切は微かに笑って両腕を開いた。 「そら」  面談の日の執務室には誰も来ない。だから迷いなくその腕の中に踏み込んで、審神者は山姥切を抱き締めた。 「大好き」  広く温かい懐で、心に浮かんだ言葉をそのまま声に載せた。回される腕の力がほんの僅かに強くなる。無言の返答ですら嬉しくて、審神者は肩口に額を擦り寄せた。  その胸から、体から、振動が伝わってきて彼女は顔を上げた。笑っているらしい。 「なぁに?」 「いや、あんた、いつも最後はそれだなと思って」  笑い混じりの声に、審神者は一拍二拍考え込み、その通りだなと頷いた。 「だって大好きなんだもの」 「知っている。俺も、あんたに手放されないよう励むとしよう」  優しくて、柔らかくて、けれど力強い声だった。好きだなぁ、と思って、また繰り返してる、と審神者は笑った。  名残惜しく思いながら腕を解く。すぐに碧い瞳と目が合って、彼女はふわりと微笑んだ。  この心を、この刀を、今この時を、過去を、明日を。全て失わないために。静かに胸中で決意を改め、審神者は気持ちを切り替えた。仕事が全く無いではないのだ。  未だ肌寒い中に、麗らかな日差しが溶け込んでいる。春の初めの、とある日のこと。

初出:2024年3月4日
あとがき

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