狭間にて ― 後日
穏やかに晴れた朝。日の出の早くなった初夏の庭に、東から明るい陽光が照り付けている。
障子の開け放された執務室を覗き込み、既に着座していた人影へと彼は声を掛けた。
「おはよう、主」
「あ、山姥切。おはよう」
「調子はどうだ?」
「いつもどおりですねぇ」
毎日同じように繰り返す朝の挨拶。
それに続けて、審神者は小さく笑って言った。左の手をひらりとかざす。
「ちゃんと戻ってこられたみたい。時計もあるし、端末も電源が入る」
「……本当に、迷惑を掛けた」
審神者が示す、『あちら』には無かったものたち。己のしでかしたことを思って、山姥切は改めて謝罪した。
その何度目になるかという詫びの言葉に、審神者があっと声を溢す。皮肉るつもりではなかったのに。
「ごめん、言い方間違えた。大丈夫だったよって言いたかっただけなの」
「俺がしたのは拉致監禁未遂だぞ。何度でも謝るさ」
「ん……、それは、そう、なんだけど……。
私は困ったことにちっとも怒ってないからさ、第一のみんなに叱ってもらって」
「そうしよう」
山姥切は嘆息と共に苦い笑みを溢した。
身勝手に審神者を攫った彼に、果たしてどんな罰が下されるやら。
「ということで。五日間、近侍は第一部隊隊員で日毎に交代、兄弟には残り四人と手合せしてもらおうと思っています。よろしいでしょうか?」
堀川国広はそう言って書面を審神者に差し出した。その斜め後ろに山姥切国広も黙って控えている。
山姥切の自白を聞いた第一部隊の隊員たちで考えた罰がそれらしい。事が事であるのと、近侍の変更を伴うこともあり、書面の形で審神者の承認を得ることにしたようだった。
「それで気が済むのであれば私から言うことは何も」
山姥切国広はこの本丸の万年近侍である。それをひょいっと座から下ろして、しばらく審神者から距離を取らせる処置なのだろう。
そしてその間に手合せで、……言ってしまえば鬱憤を晴らすつもりでいるらしい。こういうときの手合せは、必ずしも一対一とは限らない。審神者はあまり鍛錬場に近づかないよう言われているので詳しいことは知らないのだが。
「ではそのように。明日からで良いですかね? 今剣さんがとても楽しみにしていて」
「承知しました。後で私から伝えておくね」
喜ぶ短刀の満面の笑みを思い浮かべて、審神者は顔をほころばせた。幼気な振る舞いで素直に好意を伝えてくる姿はやはり可愛らしく、嬉しいものだ。
受け取った書面に判を押し、ひとまず机上に置いておく。これは後でスキャンして原本も写しも保管する。それはいい。
「ところで相談なんだけど」
「はい」
「再発防止策って必要だと思うのね」
審神者は堀川にそう切り出し、堀川もなるほどといった様子で頷いた。
「そんなに気軽にできるものだと思ってなかったし、不注意が通用してしまうとなると、どう対策を取るのが良いのかなと……」
審神者は顔を曇らせた。
山姥切に彼女の真名は、少なくとも彼女の口からは伝えていない。つまり真名を掴まずとも神隠しができてしまったことになる。しかも今回の場合、山姥切は審神者を物理的に攫ったわけでもなく、「うっかり」「夢を繋げて」しまったのである。彼の純粋な善意で、無意識に。
人知の及ばない領域での過失に、審神者は今後どう対処すべきか悩んでいた。
硬い顔つきで黙り込んでいた山姥切が、顔を上げた。口を開く。
「あんたが命じればいい」
「え」
「うーん、まぁ、完全に防ごうとするとそうなるよね」
端的な発言に審神者は目を瞬かせ、堀川は少し悩んだ様子を見せつつも首肯した。
「あんたがやるなと言えば誰もやらん。不注意も起きない」
「言霊と霊力で縛るやつ? えぇ……、強制することになるからあれあんまりやりたくないんだけどな……」
それは審神者と刀剣男士との間で交わす誓約だ。名を呼び、命じれば、主人たる審神者は従者たる刀剣男士を無理矢理にでも従わせることができる。
物の心を励起する技を以て人の姿で顕現させているのだ、相手が格上の付喪神 とはいえ、審神者の側から縛るやり方もある。
ただ彼女はそのやり方を好まない。
「禁則事項に加えれば良いんじゃないですかね。主さんが皆の前で宣言すればそれで済みますよ。兄弟がやったことは皆に知られそうだけど」
「あんた、自分の身を守るためなんだぞ、躊躇うことか?」
「えー……。んー、でもやっぱりそうなるか……」
唸りつつ、渋々といった様子で審神者はひとまず納得の色を見せた。
「兄弟のやらかしで禁則事項が増えるのはこれで二つ目だっけ?」
「ぐ……」
堀川が山姥切を振り返る。苦々しい顔を浮かべつつ否定もできない山姥切に、彼はくすりと笑った。一つ目というのも、実は山姥切の過保護が勢い余ってできたものだ。それはまた別の話である。
その後、しばらく悩んだ末に審神者が考え出した文面は、
『審神者の能動的な要望または同意無しに、審神者の肉体並びに霊魂を、神域およびそれに類する空間に連れ出すことを禁ず』
であった。
「主さん、それいつか神域に行くことがあるかもしれないような書き方ですね」
「やり方が手緩 いぞあんた」
顔をしかめる山姥切に、審神者は首を振った。
「そうは言っても、そっちに逃げなくちゃいけなくなる事態も想定した方が良いと思わない? ほら、去年のあれとか」
「あぁ……」
「確かに完全に塞いでしまうよりは抜け穴があった方が良いかもしれませんね」
うんうんと頷く堀川の隣で、山姥切が口内の苦味を消せないでいるような渋面で口を引き結んでいた。相当に自責の念を抱えているらしいなと、審神者はそっと苦笑した。
「ひとつだけね、心残りがあって」
その日の夕刻。西に傾いた山吹色の日差しが庭に落ち掛かっている。
業務を終えて一息ついた審神者がぽつりと溢した。くるりと椅子を回し、近くに侍る男の顔を認めて打ち笑んだ。
「こっちにすぐ戻ってきてしまったでしょう。あなたの神域がどんなところか、もっと見せてもらえば良かったなって。国広が、私のために用意してくれた場所は、どんなところだったんだろうな、って」
もったいないことしちゃった、と彼女は両手の指先を組んで笑った。
茶化すような明るい口振りの裏に、下がった眉に、やはり残念そうな色を見つけて山姥切は首を横に振って見せた。
「ここと、何も変わらんさ。ただ少し、冬の朝が長いだけだ」
瞬く瞳に目を向け、それから視線を宙に浮かせた。執務室の内装を、障子の向こうの縁側を、その先の前栽を、ぐるりと見遣る。
「俺は、あんたがここで過ごす姿しか知らない。あんたの過ごしやすい場所がどんなところかと考えたら、どうしてもこの本丸しか思い付かなかった。
美しい装飾や、庭や、そういうのがあったら喜ぶかもしれんとは思ったが、俺はそういうものはよくわからないし」
微かに自嘲するような笑みを溢して、山姥切は再び審神者を見返した。
「だから、まるきりここと同じだ」
そう柔らかく告げられた審神者は、意外そうに目を瞬かせて首をこてりと傾げた。
「そうだったの?」
「あぁ」
先程の彼の視線をなぞるようにぐるりと執務室を見回し、そっか、と彼女は呟いた。
「そっかぁ」
噛み締めるように繰り返して審神者はふんわりと頬を緩めた。
しばしの穏やかな沈黙の後、あ、と思い出したように音が溢れる。
「ねぇ、あの着物は?」
その一言にぴしりと山姥切が表情を強張らせる。
「見たことなかった、けど、いつものお店の畳紙 だったから」
「あ、れは」
「見せるつもりじゃなかったって国広言ってた」
「う」
「私あれとっても好きだったんだけどな?」
ねえ? と審神者が山姥切の瞳を覗き込む。
迫られて山姥切はうろうろと視線を泳がせた。
「い……ま、は、言えない」
唇を噛むような悔しげな表情で山姥切は顔を逸らした。
その表情と声に、審神者は目を瞬かせて、それからにんまりと目を細めた。
「そう? それじゃあいつかを楽しみにしてる。
……珍しい、ほんとに、楽しみ」
「っく……」
はあぁぁ、と山姥切は顔を覆って深々とため息をついた。
その姿に審神者はくすくすと笑ったのだった。嬉しそうな気恥ずかしげな表情がその顔に浮かんでいたことを、山姥切は知らない。